和尚さんのさわやか説法311
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 私は今、「自粛生活」を楽しんでいる。
 いや、慣れたというか、馴らされたからである。
 今般の「新型コロナウイルス」の感染拡大の猛威は、私達の日常生活や社会的概念、また意識そのものも一変させてしまった。
 それは、ウイルスの拡散を防止し、抑制効果の為には、人と人との接触や往来を回避することが、特効薬やワクチンが開発されていない現状にあっては最も有効な方策が、この「自粛」であるという。
 4月7日の東京、大阪等の大都市圏を対象に「緊急事態宣言」が、続いて同月17日には全国に対して「新型コロナ特措法」に基づき、同宣言が発出され私達国民に不急不要の外出回避、自粛が公的に要請された。

―では―
 この「自粛」とは一体どういう意味なのであろうか?
 政府は「自粛」はあくまでも要請であって強制ではない、という。
 自粛とは、その字体の如く、主体は「自分」であり、自らが起こす「粛」という行動なのだ。
 では、「粛」とは何ぞや?ということになる。
 粛とは、①つつしむ、おごそかに、音を立てない、だそうだ。また②きびしい、心身を引き締める。③ただす。戒める。という意味とのことであった。
―つまり―
 自粛とは、自らが自分の行動を、つつしみ音を立てないように、心と身体を引き締めて慎重に、自分を糺(ただ)し戒(いまし)めることなのである。

―何だか―
 こうして表現すると「してはいけない」
「するな」というような禁止の意味にも受け取れるが、そうではないのである。
 自粛は、あくまでも「慎しむ」ことであって、「自らが気をつける」「自らを引き締めよう」とする自己の考えに基づく「自己決定」であった。
 だからこそ、強制される何ものもなく「要請」でしかない。

―そこで―
 今度は、この「自粛」を禅の教えから考えてみたい。
 実は「はちえきキャンパス」での毎月、第2日曜日、「朝の坐禅」という教室を担当し、そこでの講座説法をした時のことであった。
 この講座とて、コロナの感染影響があり、3月から5月までの3ヶ月間は中止となり、6月第2日曜日、久しぶりに開講した。
 広い教室に受講生はたったの2名であるからにして密閉、密集、密接は回避されている。(※コロナ以前から2~3名の少人数です……。ショボン…(泣))

 坐禅の時の坐わり方の基本は「調身、調息、調心」であり、この「三調」は、実は坐禅ばかりでなく、日常の修行や生活そのものの基本である。
 このことを、受講生の2名とのイス坐禅が終了後、ホワイトボードに書いて講座説法した時のことであった。
 「調身」とは、自らの身体を正し、調えること。「調息」とは、息の出入をゆっくりと呼吸し、調えること。そして「調心」は、そのことによって自らの心が調うこと。
以上を皆さんに説明した。
 その時に、私は「自粛」と、その横に大きく書いていたのだ。
 そこで、この「粛」とは「つつしむ」ということではあるが、私は、禅の教えから考えると「調」。つまり「調える」ということではないか!!
 そのように言い切ったのであった。
 即ち「自粛」とは、「自らが、自らの行動を調えること」「自らの心を調えること」そのことが本質ではないか!!ということであった。
「自粛は自調なり!!」それが、私の仏教的な自粛見解だ。

―てなことで―
 次に、私の「自粛生活」で気づいたことを書いてみたい。
 私は和尚であり、寺の住職である。
「住職」とは、住むことが職業であり、職務なのだ。
 ということは、寺にずうっと居て、慎しみ常に心を調えた「自粛生活」でなければならないはずだ。
―ところが―
 私は、いつも、あちこちとどこかに飛び回っており、寺にあまり居ないのだ。
 つまり、私は住職でなく「不住・職」だった。……(泣)
(檀家の皆様、すみません💧💧💧💧💧)
 しかし、この3ヶ月は自粛生活を余儀なくされ、特に夜間、あらゆる会合、会議が中止となり、出掛けることが無くなっていた。
 夕方、銭湯で汗を流し、体重を落し、水分も落したところで、帰りにコンビニに立ち寄っては、缶チューを買い求め、台所で「プシュー」っと開けての水分補給が日課となった。(和尚だったら、缶チューではなく閑中(かんちゅう)静かに読書や、勉強の知識補給を日課とすればいいのに💧💧💧(泣))
 そこでの楽しみは、BS放送での音楽番組だった。
 それは、毎日、どこかのTV局で放送されている、「昭和の歌謡曲」とか「BSこころの歌」「歌謡プレミアム」とかの、今流行(いまはやり)ではない、私の若かりし頃の歌謡曲番組のことだ。
 それらを探し求めては、チャンネルを合わせ、時には一緒に歌い、なつかしがっては、グィっと缶チューを呑み干すのだ。
 これが実に美味(うま)い!!

 ある日のことだった。「ザ・偉人伝」―人生を変えた出会い!!人生を変えた歌!!―の番組で、作曲家・船村徹氏の生涯と、その作曲した歌の数々が流れた。
 その中で船村氏がこう言った。
「歌詞はメロディーと共にある。そのメロディーと一体になった歌は言霊(ことだま)である。」
 この言葉を聞いた瞬間、ガツンと頭を打たれたような感じに襲われた。
「そうかぁー」
「御経も同じだ。和尚が御経と一体となって唱えることが、お釈迦様の言霊(ことだま)を伝えることなのだ」
「御経は、お釈迦様の言霊(ことだま)なのだ」
 私は御経なるものの本質を、この齢になって、やっと気づかされた。それも缶チューを手に持ってだ。……。(泣)

 お釈迦様の『法句経』(363)には、こう説かれてある

 比丘(びく)の
 口(くち)をよく調(ととの)え
 言うところの
 賢(けん)にして 寂(じゃく)
 義(よし)と法(のり)と示(しめ)さんに
 彼の説くところ
 甘美(かんび)なり

 この教えを船村氏の「歌の言霊」に例えるならば、歌手は、声を調え、歌うところは、賢明に、そして寂にして、その心と真理を示し歌うのである。
 故に歌手の説く歌はまことに甘美なり。
とのことであるのだ。
 私、高山和尚もまた然りである。
 私の唱えるお経も
よく声を調え、お釈迦様の心と真理を説く「言霊(ことだま)」を示さなければならないのである。
 でなければ、甘美なる御経とは、ならない。
 しかし、これが実に難しい💧💧💧

 私は、今回の自粛生活を通して、そのことに気づかされると共に自粛は「自己を調える」ことだということを教えられた。
―でも―
 たまには、自粛ならぬ奥様の「自縮(じしゅく)」からも解除され、伸び伸びと羽を延ばして出掛けたいものだと「不住・職」なるが故に願っている。💧💧💧💧

合掌