和尚さんのさわやか説法317
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 新年 明けまして おめでとうございます。
 丑年の今年が、皆様にとりまして、良き年であることを祈念すると共に、日本が、そして世界が新型コロナウイルスの猛威を克服し平穏な日々に、立ち戻ることを心から願ってやみません。

 顧みるに、昨年の1月15日、我が国最初の感染者が報告された後全国に、またたく間に拡大拡散化し、八戸市初の感染者発生が公表されたのは3月23日のことであった。
-まさに-
 新型コロナ感染から、「令和2年の年」が始まり、その脅威に苛(さいな)ませられながら1年は終わった。
 そして、この「令和3年」の正月もまた、第3波の禍中にある。

-故に-
 今年は、コロナウイルスという「鬼を滅する」べく、ワクチンの接種、また抗ウイルス薬なる特効治療薬という「刃(やいば)」によって、1日でも早く収束し、やがては終息する年であるよう願うばかりである。

 昨年暮、私は劇場版「鬼滅の刃」を奥様を無理やり同行させて観に行った。
 私は70歳の古稀を迎えた「じさま和尚」のくせに、ミーハー的性分は如何ともしがたく、その衝動を抑えきれなかった。
 映画館は、子ども達の声であふれていた。
 私は、ソーシャルディスタンスを保つ為に、親子連れの席からは離れ、奥様とも離れ、空いている前列部分の席に座った。

 「鬼滅の刃」が上映された。
-ところが-
 観ていて、何が何だか、ちっとも分からないのだ。
 登場人物やら、ストーリーの展開の速さについていけないのだ。
 それもそのはずである。劇場版「鬼滅の刃」はアニメのTVシリーズの続編であって、私は1回も観たこと、ましてや漫画本も手にしたことはなく、いきなり観たからである。
 その上、前列に座わっていることもあり、大画面に繰り広げられるテンポと色彩の速さに、私の目が左右に激しく揺れ動くのだ。
「こりゃあ!!ここで観ていれば、具合が悪くなってしまう」
「オレも鬼に喰われてしまう」
 そう思って、コソコソと這いずり後方の斜め席の空いている所へ移動して、斜視的に観ることにした。

 これが功を奏したのか、客観的にその展開について行けるようになり、次第に「鬼滅の刃」に惹き込まれていった。
 観ていて感じさせられたのは、その内容が実に仏教的であるというか、禅の教えを描いているのではないかとの思いに駆られたことだった。

-それは-
 主人公の「竃門炭治郎」(かまどたんじろう)の心の中の風景が「青く澄みきった空に、それとやはり澄みきった水面(みなも)」という「明鏡止水(めいきょうしすい)」的な心象風景が描かれた時だった。
 私は、その映像に観入りながら、
「こりゃ、無我無心なる炭治郎の心を描いているのか?」と唸り、更には、ドキッとさせられたのは、「煉獄杏寿郎」(れんごくきょうじゅろう)が母である「煉獄瑠火」(れんごくるか)との幼き頃の回想シーンであった。
(瑠火母上様は美しかったなぁー♡♡)
 母が子を諭す……。
「なぜ、自分が人よりも強く生まれたのか、わかりますか?」
「弱き人を助けるためです」
「その力を 世のため 人のために 使わなければなりません」
「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。使命なのです」
「決して 忘れることのなきように……」
「母は、もう長く生きられません」
「強く優しい子の母になれて 幸せでした」
 このシーンは、私の胸をえぐった。唸った。目頭が熱くなった。
 そして、私は心の中で叫んでいた。
「こりゃあ~!!菩薩の心だ。仏の心だ。この瑠火なる女性は、観音菩薩なのか?」と……。

-菩薩とは-
 菩提薩埵(ぼだいさった)の略称で、真実の悟りを求める人であり、しかも自己の悟りの功徳をめぐらしもって世の人々を救い、救わんとする強い願いに生きる方である。
 それが即ち、「仏」たる心と姿なのだ。
 杏寿郎や炭治郎の「鬼滅」の「刃」は、弱き人を助け、強き鬼を挫(くじ)く。世の為、人の為、人々を助け救い活かす「利他の剣」であり、「活人剣」なのではないか?

 杏寿郎がラストシーンで、鬼の猗窩座(あかざ)との対決で傷つき倒れる中で、母の瑠火を思い浮かべ……。
「母上、俺は果たすべきことを全うできましたか?」と問いかける。
 これに
「立派に出来ましたよ」と母は誉める。
 その言葉と母の微笑の中で杏寿郎は、息を引き取る時に、何とも言えない笑顔を見せるのであった。
 私は、涙をこらえることが出来なかった。

-それと同時に-
 私は、杏寿郎の人々を救わん為に、自己の身命を賭して鬼と戦わんとする覚悟と、その姿を観て、「菩薩行」を表わす「十牛図」(じゅうぎゅうず)の「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)の絵図と、炭治郎のあの澄み切った心象風景が重なり、同じく「十牛図」の「人牛俱忘」(じんぎゅうぐぼう)の「空(くう)」なる何も描かれない円相図が、私の脳裡に、突如として現出したのだった。

-鬼滅の刃の感想は-
このぐらいにして、今年は丑年でもあり、「十牛図」について説法することにします。
 あまり「鬼滅の刃」について蘊蓄(うんちく)を傾けて語っていると、それこそ「鬼滅ファン」に怒られてしまいます。

-十牛図とは-
 学人、つまり仏道を学ぶ修行者が、悟りに到るまでのプロセスを10枚の絵図で表わしたものであり、ここには牛と牧童が描かれている。
 つまり、十牛図とは仏道の「悟り」を視覚として、学人たる修行者に理解せしめんと、言葉や文字ではなく「絵」で表現したものであり、真の「自己究明」への物語であった。
 ここに描かれている「牛」とは「悟りの当体」であり「仏心・仏性の当体」である。そして牧童は、その「牛」を求める「私」という修行者たる「自己」を例えている。
-そこで-
 第1図は「尋牛」といって、牛を探すところから始まり、修行者としての第1歩が描かれており、最後の第10図の「入鄽垂手」は、世の人々を救わんとしての「垂手」、つまり手を差し延べる姿で終わるのである。

 そして「入鄽」の鄽とは訓読みでは「みせ・やしき」と読み、ここでは、それが連なる「街」を云う。
 つまり、人々の住む街に入って、苦しみ悩む人々に手を垂れて救わんとするという姿を表わしているのであって、この願行が菩薩行であるのだ。
 この絵図には、布袋和尚が描かれている。
 実は、この布袋和尚なる人物は、弥勒菩薩の化身であるとされている。
 即ち「菩薩の姿」なのだ。

 正月号の「さわやか説法」においては、「鬼滅の刃」での「煉獄杏寿郎」と母「瑠火」との会話や、「竃門炭治郎」の明鏡止水なる心象風景を題材としてみた。
 それは、杏寿郎が、修行練磨の道程の中にあって支えてきたのは母の言葉である「弱き人を救うことは 強く生まれた者の責務ですよ」との深き慈愛が、まさしく鬼の世界に入っての「入鄽垂手」であり、また、炭治郎の心底は「人牛俱忘」の「自己の存在」相手の「鬼の存在」をも忘(ぼう)じ去った執れのない「空(くう)」なる世界を具現化しているのではないか!!
 私は劇場版「鬼滅の刃」を観て、感じ入り、心を動かされ、そして学ばさせられていた。

 丑年に因んでの「十牛図」の詳細については、新年1月号(1/16(土)発行)にて語ります。
-そして最後に-
 鬼滅ファンの方々には、私の勝手なる自己解釈をお許しいただきたく存じます。
 私は今、小学3年生の児童から「鬼滅の刃」全23巻(ジャンプ・コミックス)をお借りして呑めり込んで勉強中です。いつしか私も、鬼滅ファンになってしまいました。💧💧💧
トホッホッホ💧💧💧

合掌

参考
映画・劇場版「鬼滅の刃」及びそのパンフレット