和尚さんのさわやか説法319
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 本日。さわやか説法の発行日は、いみじくも春のお彼岸の「中日」である。
 今年の「お彼岸」は現今の新型コロナウイルス感染予防上からも「3密」を避け、手指の消毒、マスク着用を励行しての御先祖参りをお願いした。
 しかも、中日には例年、多くの檀家さん参列のもとに開催される「檀家御先祖総供養」は総代さんの焼香のみでの「自粛法要」となった。
 常現寺に奉られている境内や、本堂内のお地蔵さま、観音さま、開山堂の、御開山さま道元、瑩山の両祖さまからビンズル尊者までも、全ての仏像、尊像は手製の「マスク」をしている。
 これは、昨年4月に「仏の世界も感染予防!!」とのことから、檀家の皆様にマスク着用を呼び掛ける意味での「仏教啓発活動」であった。
 この「御仏マスク」は、コロナ禍が終息するまで、お地蔵さま、観音さまには申し訳ないが着用をお願いしてのことだったが、未だにその気配すらも見えず、マスクの取り外しはまだまだ先のことになりそうだ。
 4月からは、高齢者の方々からワクチン接種が開始されるとのことだが、これとて、国民全体にまでとなると、見通しすらも立てられない状況下にある。
 1日でも早い終息をただただ願うばかりで来年の正月、春のお彼岸には、平常通り、マスク無しで、仏様も私達も笑顔いっぱいで迎えたいものだ。

-さて-
「十牛図」の続きである。
 第1図は「尋牛(じんぎゅう)」であり、牛を探し尋ねるとは、自己の悟りを求めんが為に仏道なる世界に第1歩を踏み出す「求道の姿」を表わしていると1月号の「さわやか説法」で愚考愚説してみた。
 その際、この「十牛図」の作者 廓庵(かくあん)禅師の「頌(じゅ)」を取り上げて見た。

「茫々(ぼうぼう)として 草を撥(はら)い去って追尋(ついじん)す
 水闊(ひろ)く 山遥(はる)かにして 路(みち) 更(さら)に深(ふか)し」

 ここには、求道者たる牧童が、牛を探し求めて茫々たる草を払い広き川を渡り、遥かなる山奥まで深く入る求道の姿を描いている。

-今、まさに春の兆しの中にある-
 私は、平成7年の「さわやか説法」4月号に「春のときめき病」という題名の中で、こんな漢詩を取り上げていた。

 尽日(じんじつ) 春を尋(たず)ねて 春を見ず
 茫鞋(ぼうあい)踏み遍(あまね)くす隴頭(ろうとう)の雲(くも)
 帰来(きらい)却(かえ)って 梅花(ばいか)の下(もと)を過ぐれば
 春は枝頭(しとう)に在(あ)って 已(すで)に十分(じゅうぶん)

 この漢詩は、中国は宋の時代、載益(さいえき)なる方の作のものであり、春を尋ね求める姿を描いた有名な詩である。
-まさしく-
「十牛図」の第1図「尋牛」と同じ内容ではないか!!
 載益詩人の「春」を廓庵禅師の「十牛図」の「牛」に置き換えてみよう。
 すると、「尽日、牛を尋ねて 牛を見ず」となる。
 そしてまた、廓庵禅師の頌で説かれる「茫々として……」また「山遥かにして、路、更に深し」は、次なる句の「茫鞋(ぼうあい)、踏み遍(あまね)くす隴頭(ろうとう)の雲」と、やはり同じ情景ではないか!!

 廓庵禅師は「牛」を、載益詩人は「春」を尋ね探し求めての描写である。
-そして-
 そこには、その跡を見つけることが出来ない。見つけようとすればする程、山奥へ深く入っていく。
 春ならば「春の足音」を見つけようと。牛ならば「牛の足跡」だ。
 しかしながら、どちらも見つけ出すことができない。

-そこで-
載益詩人は、疲れきって、我が家に帰って来た。
 その時、「ハッ」と気づくのだ。
 我が家の梅の樹の下をくぐった時、芽吹いている「梅の花」に気づくのだ。「なぁ~んだ!!春は、もう、この枝頭に十分に来ているではないか!!」と……。

-つまり-
 この載益詩人の「春は枝頭にあって 已に十分」の1節は、「十牛図」の第2図「見跡」に通じる内容だと、私は感じぜざるを得なかった。

 第2図において牧童は見つけれない牛を探す手掛りとして、足跡を見つけようとする。
 それを、廓庵禅師の「序」には、
「経に依って義を解し教えを閲(えつ)して跡を知る」とある。
 つまり、文字や祖師の著わした経典を読み意味を理解し、また古人の教えを読んでその足跡を知り得て、「牛」なる悟りの姿の痕跡を見つけようとするのだ。

-しかし-
 見つけられない。実は、牛の足跡は、いっぱい、あちこちに残っているのに、牧童には、まだ「真実の眼」が無いので見つけ出すことが出来ないでいる。
 このことを、廓庵禅師は「頌」において、かく述べられる。

「水辺林下(すいへんりんか) 跡 偏(ひとえ)に 多し 芳草離披(りし)たり、見るや、また否や」

 これは、「川のほとりや林の木陰など、牛の足跡は、いたる所に多く残ってある。芳草が美しく茂っている草むらの中に隠れている牛の足跡を見えるかな?見えないかな?」と問うているのだ。

-まさしく-
 先述した載益詩人の「春は枝頭に在って 已に十分」の意味なのだ。
 自己の、足下(そっか)に、牛の足跡が「已に十分に在る」のに、それに気づかないだけなのだ。
 即ち、仏の道の修行底、仏の悟りとは、遠き山々の向こうにあるものではない。
 遥か彼方にあるのではない。
 今、ここに、自己の脚下(きゃっか)にあるのである。
 この肝要を「十牛図第2図」の「見跡」は説いている。
 
 この「見跡」、あるいは「春は枝頭に已に十分」は、人生の道とて同様である。
 幸せを求め、探し歩いたとしても見つけることはできない。
-そうではない-
 私達の、今、ここに已に十分に、その足下、脚下、あるいは眼前にはあるのだ。
 そのことを、私達に教え示している。
 今月号の「さわやか説法」では「十牛図」「見跡」について愚考愚説を、またまた説法してみた。何とぞお許しをいただきたい。

合掌