和尚さんのさわやか説法324
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今月号も、またまた『十牛図』であり、今回は第6図「騎牛帰家(きぎゅうきけ)」である。
 第5図は、捕まえた牛を飼いならし、牛と牧童が一緒になって歩む姿だった。
 第6図は、その牛の背に乗っ掛り、そして我が家へ帰るというのである。
 このことは、何を意味しているのであろうか?
 参考までに、掲載してある写真を見ていただきたい。
十牛図「騎牛帰家」のブロンズ像(セリエ仏光堂所蔵)
 このブロンズ製の「騎牛帰家」像は、小中野は山村陽一葬儀店「セリエ仏光堂」の第2導師控室に鎮座し飾ってある。
 私はお檀家さんの御葬儀でその控室に入ると、「どうして、十牛図のこの像がここに飾ってあるのか?」と疑問を持ち、いつかその理由を聞きたいものだと思っていた。
 今般の「さわやか説法」で取り上げることから、この疑問を現社長に訊ねてみた。
-そしたらである-
 これは、創立者であり、先代社長の今は亡き山村陽一氏が鋳物の街、富山県は高岡市で、買い求められたという。
 その当時、山村氏はこのブロンズ像が「十牛図」の絵図に基づいてのことは、知る由もなく、「牧童」と銘打ったこの作品を見て
「父は、きっと何か感ずるものがあったのでしょう」
「それは、子どもが大きな牛の背中に乗り、笛を吹いている姿に 癒されたのではないでしょうか……」
「父はとても気に入っており、葬儀会館であるセリエ仏光堂が完成した際に、導師控室に飾ったのです」と
懐かしむように御子息の現社長は語った。

-その時-
 私は突如、あの豪快で繊細な山村陽一氏の風貌が心に浮かび、こう思った。
「この牧童たる笛を吹く童(わらべ)は陽一氏の2人の子どもなんだ……」
「そして、牛は自分のことなんだ」
「子どもを自分の背中に乗せて ノッシノッシと歩く、子どもは無邪気に父の背で笛を吹いている……」
「その姿を、このブロンズ像に重ね合わせたのではないか?」

 「十牛図」第6図の「騎牛帰家」序には
 干戈已罷 得失還空
 唱樵子之村歌
 吹児童之野曲
 身横牛上 目視雲霄
 呼喚不回 撈籠不住
とある。
 漢文は、まことに難しい💧💧💧(涙)
 では和訳してみよう

 牛に騎(の)って家に帰る

干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み 得失(とくしつ)環(ま)た空(くう)ず。樵子(しょうし)の村歌(そんか)を唱(とな)え、児童(じどう)の野曲(やきょく)を吹(ふ)く。
身(み)を牛の上に横たえ、目に雲霄(うんしょう)を視(み)る。呼喚(よびかえ)すれども回(かえ)らず。撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。

 まだまだ難しい。
今度は意訳だ。
 自己の心を探し求めて、その「本来の心」である「牛」を捕まえ飼いならした。
 そこには、自分と「本来の心」と一体となって、何の得失もない。
 あたかも、それは、牧童が無邪気にきこり歌を口ずさみ、笛でわらべ歌を吹く。大きな牛の背中にのんびりと乗り大空のかなたを見ている。
 そのような執われのない自由な境地なのだ。
 誰かに呼びかけられても振り向くこともなく、引き留められても止まることもなく、牧童も牛も共に家に帰るだけだ。
-つまり-
 無心無我なる牧童と、また無心にて牧童を背に騎せての牛と一体となった何のはからいも無い姿が、この「騎牛帰家」の意味するところであった。
 大事なのは「帰家」である。この「家」は単なる「我が家」のことではなく「安らぎの境地」「安らぎの心」を意味するのだ。

-まさに-
 先程述べた亡き山村陽一氏の心境と同じではないか!!
 親と子の心が一体となった「親子無心」の境地、あるいは自由無礙(じゆうむげ)なる境地であり、そして安らぎある家路に子どもと歩むのであった。

-この時-
 ここまで書き進めていたら、またまた突如として、パラリンピックのあるシーンが心によみがえった。

 それは、パラ競技女子100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得された山田美幸選手が父への想いをインタビューで語ったシーンであった。
 彼女は、東京2020パラリンピック第1号のメダリストとなった。そして夏冬通して日本史上最年少のメダリストだ。まだ中学生である。
 生まれた時には両腕がなく、下股にも障がいがあり、5才で父親に励まされて水泳を始めたとのこと。
 水泳教室のコーチから「障がいがあっても体は浮いてくるから大丈夫だよ」との声に素直に頷き、チャポンとプールに入ったという。
 お父さんは、我が娘が風呂でおぼれないようにとの思いから、水に慣れさせようと水泳教室に連れていったそうだ。

 私は、ニュース番組だったが、その実況映像に釘付けとなって声援した。
「ガンバレ!! ガンバレ!!」ゴールした瞬間、「ヤッタァー」と叫んでいた。
 何故かしら涙が止まらない。熱くて熱くてたまらないのだ。
-そして-
 レース後のインタビューだった。
「パパは、ちっちゃい頃からカッパだったんだよ」と、私にいつも言ってました。
 お父さんは、2年前ガンで亡くなられたという。そう言って、我が子を励まし応援し続けていた。
 そして、最後に「パパ!! 私もカッパになったよ!!」と亡き父に呼びかけた。
声を詰まらせながら、満面の笑顔で…。
 このインタビューでの彼女の語った言葉に、私は胸を突かれ、心が揺さぶられ、またまた涙が溢れ出た。

 優しい父の心と、我が子の心が一体となっての「無心の勝利」、「無心の銀メダル」だったのではないか。
 それは、まさに彼女が言った「パパ!! 私もカッパになったよ!!」との言葉は「父の心」の元に帰ったのであろう。
 父との安らぎの家に帰ったのである。

 「十牛図」での第6図「騎牛帰家」は、自分の心と、「自己本来の心」が一体となっての「無心」なる安住の境地へ帰るとの教えである。
 親が子を思う心も、子が親を思う心も、どちらも「無心なる愛情」であり、「無心なる安らぎ」なのだ。

合掌