和尚さんのさわやか説法341
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

「和尚さん!!」
「こんなに水浸しにして!!」(`^´)
「ちゃんと、片付けなさい!!」(`^´)
「包丁も、出しっ放しにして……!!」(`^´)
 もう、その剣幕にタジタジとしながら、私は切り返しの一発!!
「そんなに、注意するなよ!!」(`^´)
「せっかくの胡瓜もみがまずくなるじゃ!!」(`^´)
 渋々、私は片付け始めた……。💧💧💧

 皆さんは、風呂上がりの一杯の「おかず」は、何を御所望ですか?
 私は、先程、奥様に言い返した「胡瓜もみ」が大好きで、自分でシャッカシャッカ シャッカシャッカ とスライスしては、少量の塩を振り掛け、胡瓜だけにキュリキュリと揉む。

 その後、水洗いをして今度は、右手で固くギュッと絞って、水気を抜くのだ。
 次に味付けだ。私はそれに「リンゴ酢」をたっぷりと入れるが、甘いこともあって、黒酢を更に加えて、程良く自分好みの味に調整する。
 そして最後に、冷凍庫から、氷を2~3個を投入して、勢い良く掻き混ぜる。
 こうすることによって、冷たくシャキシャキとした口触りの良い「胡瓜もみ」の完成だ。
-これが-
 熱く火照った風呂上がりの一杯には、最高の御馳走となる。

-私の至極の一杯-
 それは日本酒ではなく、「お茶」の焼酎割り「緑茶ハイ」だ。昨年6月に「コロナ」に感染してからは嗜好が大きく変化してしまった。
 あれほど好きだった日本酒が飲めなくなり、ペットボトルのお茶9に焼酎1の割合を、氷でキンキンに冷やして、それを「プパー」っと一気に喉元から胃に流し込む。
 そして、次なる一箸は、冷えた「胡瓜もみ」をシャキっと咬みしめるのだ。
-その至福の一瞬-
「うまい!!」
「実に美味しい…」
と味わっている時だった。
 それが、こともあろうか!!冒頭のごとく、奥様からのお叱りという注意喚起を受けたのだ。

-もう-
 至極の一杯と至福の一瞬が、瞬時にぶっ飛び、興醒めし、奈落へ落ちてしまった。
 その至極と至福の時を邪魔され水をさされ……。
(陰の声:台所だけに水を差すのは当然だ)
 私は、途端に不機嫌となって片付け始めた。
「何とか 言い返しをしてやりたい」
 奥様を懲らしめたくなった。

-その時だった-
 長野県は円福寺御住職、今は亡き「藤本幸邦」老師が全国に提唱された有名な詩が、口を突いて出た。

 それは、こんな詩だ。タイトルは「はきものをそろえる」である。

 はきものをそろえると
 心もそろう
 心がそろうと はきものがそろう
 ぬぐときに そろえておくと
 はくときに 心がみだれない
 だれかが みだしておいたら
 だまって そろえておいてあげよう
 そうすればきっと
 世界中の人の心も そろうでしょう

 私は覚えていたこの詩を洗い場を片付けながら、ワザと声高に朗読した。
「藤本幸邦老師が、この詩の中で、言わんとする大事な箇所は、ここなんだよ」
「誰かが乱しておいたら、黙って そろえて上げよう……。ここなんだよ」
「だからな!!」
「俺が、胡瓜もみを作って マナ板や包丁を乱しておいたなら、黙って揃えて上げよう。黙って きれいにして上げよう……。」
「その思いやりが大切なんだよ」
「それを ただ注意すれば いいっていうもんじゃないんだ!!」

 私は、御老師の高尚な詩と「胡瓜もみ」事件を勝手に融合させて、いけしゃあしゃあと他の人を思いやる心を奥様に説き示したのであった。
 そして ダメ押しの一発!!
「その黙って やって上げる心を『仏の心』というものなんだ」
 私は、心の中で呟いていた。
「どうでェー。分かったかぁー」と……。

-ところがである-
 奥様は、その和尚の一枚も二枚も上手だった。
 私のダメ押しの一発に対して、ダメ出しの一発を放った。
「何、言ってんの!!」
「人に注意される前に黙って自分でやれ!!」
「そうしたら、私は何も注意しないでしょ!!」
「きれいに自分で、さっさと片付ける」
「それを、私のせいにして、何が黙って片付けろ!!とは、なんですか?」
「それより、自分で黙って片付けなさい!!」
 私は、「ハァッハァー」と項垂(うなだ)れ、黙って水浸しの流し台を拭くしかなかった。

 お釈迦様の真実の言葉を語る『法句経』に、こういう一句があった。

身(み)の上(うえ)に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
語(ことば)の上(うえ)に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
意(おもい)の上(うえ)に
おのれを摂(ととの)うるは善(よ)く
一切処(すべて)に摂(ととの)うるは善(よ)し
かく摂(ととの)えたる比丘(びく)は
すべての苦(く)より脱(のが)る (361)

 この句を先述した
「はきものをそろえる」になぞらえ、更には「おのれ」を自分、あるいは「他の人」にもと転換するならば、さしずめ、こういう意味となるのではないだろうか。

身(み)の上に おのれも
他も 揃(そろ)えるは善く
語(ことば)の上に おのれも
他も 揃えるは善く
意(おもい)の上に おのれも
他も 揃えるは善く
すべて揃えるは善し
かく揃えたる比丘は
すべての苦より脱(のが)る

と、私は恐れ多くも、かく超訳してしまった。

-まさに-
 藤本幸邦老師が私たちに伝えたかったことは、皆なが「はきもの」を「揃える」ということによって「善し」となり、更には自分ばかりか他の人にも、黙って「揃えて上げよう」ということによりすべて「善し」となるのだ。
-それは-
まさしく「ほどこし」の心であり、「思いやり」の心であるからだ。
 その心を一人一人が、実践するならば、きっと世の中の人々が争ったり、責めたりする「苦」から脱却し、お互いの人々の心が「調和し揃う」ということになるのではないか。

 私は、今回の「胡瓜もみ」事件から、この藤本老師の名言名詩を通して、更にはお釈迦様の『法句経』の名句を学び噛み締めることになった。
 道理で、あの時の「胡瓜もみ」は、実に酸っぱかった……。
 私は、奥様の喚言によって「胡瓜(きゅうり)もみ」ならぬ「私の胸裡(きょうり)」をもみもみされたのだ。
 トッホッホッホ💧💧💧

合掌

※「はきものをそろえる」藤本幸邦作 円福寺版
 『法句経』友松圓諦訳 講談社学術文庫