和尚さんのさわやか説法345
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今年の夏は「暑かったなぁ~」(><) 「もう、暑いのなんのって!!」(^^;) 「猛暑を通り越して、酷暑どころか、炎暑に熱暑だ!!」 「これは すさまじい激暑に、厳暑、極暑だぁ~」と、「暑さ」を表現する熟語を熱波の本堂で、私は叫んでいた。
 9月1日、気象庁は今年の夏のまとめを発表した。
 それによると、1898年の気温統計を開始して以来125年間で、最も高く、平均値より1.76度高かったと発表した。
 これは驚異的な上昇だという。
 そこで、本年夏の気温全国ランキングを上げてみる。
 最高気温第1位は、8月10日、石川県小松市の40.0℃だそうだ。
「えっ?」「そのぐらいですか?」「もっと高かったような?」
では、青森県ランキングはどうかというと、同じく8月10日、弘前市が県内1位の39.3℃であり、2位は五所川原市の39.0℃だそうだ。そして八戸市は、同日の36.7℃で県内8位とのことだ。
 やっぱり八戸市は、八戸だけに気温でも「八」位なのだ。

-でも-
 でもね!!「あの日は、36.7℃どころか、39℃を私の車の温度計は表示してましたよ!!」
「トイレの温度計は40℃になっていましたよ!!」と、またもや私は叫びたくなった。
(因みに、我が家というか、我が寺の温度計は、どういう訳か、昔からトイレに飾ってあるのです・・・・・・。
トッホッホッホ💧💧💧)

〽むか~す、むかす 中国さ、洞山良价という、おしょ様がいだずもなす~
(先月号の南部弁バージョンだと、こういう始まりになりますが、今月号は、リセットして普通に語ります)

 この洞山良价(とうざんりょうかい)和尚は、弟子の曹山本寂(そうざんほんじゃく)和尚と、宗風を挙揚せられ、その名の1文字を倒置合体し「曹洞宗」と称した派祖である
 洞山禅師は、西暦807~869年の方で、中国は「唐王朝」の時代であり、日本では奈良・平安時代である。

 その洞山良价禅師にこのような逸話がある。
 『碧巌録(へきがんろく)』という、「禅宗公案」の語録「第43則」に、こう記されている。

 「洞山無寒暑(とうざんむかんじょ)」

 僧、洞山に問う。
「寒暑到来 いかんが回避せん」
 山云く。
「何ぞ 無寒暑の処に向かって去らざる」
 僧云く。
「いかなるか これ無寒暑の処」
 山云く。
「寒時(かんじ)は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時は闍梨を熱殺(ねっさつ)せん」

 漢文語録は、まっこと難しい。チンプンカンプンだ。
 では、現代文に翻訳してみよう。
 ある修行僧が、御師匠様である「洞山良价禅師」に問答を仕掛けた。
 だぶん、今年の夏のように猛暑の日なのか?はたまた厳しい寒さの日であったのか?
 ここは、熱暑の日としてみよう。
「御師匠様!! 暑さがやってまいりました。もう暑くてたまりません!!」
「どうやって この暑さを回避したら よろしいでしょうか?」
 すると、洞山様は、こう答えられた。
「だったら、暑くない処に 行ったらいいじゃないかい。」
 そしたら、修行僧はこう云った。
「では、その暑くもない処とは 一体?どこにあるのですか?」
 そうしたならば、洞山禅師は こう一喝した。
「熱時は闍梨を熱殺せよ」
-つまり-
 ここの「闍梨」とは「阿闍梨(あじゃり)」の略称、僧侶の代名詞で、相手への尊称であり、「貴方(あなた)」という意味である。
 また「熱殺(ねっさつ)」の「殺(さつ)」は「殺す」ということではなく「強調語」で、「ものすごく熱い」という意味なのだ。
 たぶん、修行僧は、避暑する涼しい処が、どこにあるのか師匠に、「如何(いか)なるか、無寒暑の処」と聞いたのだ。
-そこで-
 洞山師匠は、こう言いたかったのだ。
「そういう場所の問題ではないのだ。あなたの心の問題なのだ」
「熱時、暑い時は、あなた自身が、暑さそのものになりきりなさい。」
「暑い、暑いと言ってどこかに回避し、逃れようとすることではないのだ!!」との教えであった。
-即ち-
「熱時は闍梨を熱殺す」とは、
 その修行僧の「心の迷い」とか、他に求める心を戒めたものであった。
「なりきる」という禅の徹底した「不動心」のことを具現した一喝なのだ。

-でも-
-でもね-
 私は、洞山禅師に恐れ多くも、こう言いたくなった。
「そりゃ、西暦800年代の昔の暑さと、2023年の現代の暑さとは、比べものになりませんよ」
「ましてや、そちらは中国は深山幽谷の寺でしょ。暑さの度合いが、丸っきり違いますよ」
「令和の現代にあって、暑さになりきれ!!って、暑さに耐えて、辛抱してたら熱中症になってしまいますよ!!」と私は捲し立てた。

-では-
 この洞山禅師の教えを現代的に解釈すればどういうふうに受け止めればよいのか。
 これは、私に与えられた公案であると思った。

 洞山禅師は「どこかに暑くない処があるのではないか?」と僧の求める心を戒めた。
 しかし、私は現代は、エアコンの効いた処とか涼しい木陰とか、暑さを回避する処を求めなければ「熱中症」になってしまう。
 ということで、私なりの答えは、
「暑い時は、その暑さを楽しもう!!」
「熱時は 熱時を 楽殺(らくさつ)す」
との結論に達した。
 つまり、自己工夫をして、冷たい水を飲む、冷たい緑茶ハイを飲む。
(何だか、禅問答が、とんでもない答えになってます)
 言いたいことは、暑さと対立することなく受け入れ、暑さそのものになりながらも、しっかりと自分の体調管理しての「自己工夫」によって、暑さと共存することではないか。
 汗をかきながらも、「平然」と楽しんでいるとの境地になることだ。と、思った。
-でも-
 洞山禅師は、きっと「なっちょらん」と一蹴一喝するにちがいない。
-それは-
 この「洞山無寒暑」の公案の本質は、実は「寒暑」を例えとしての「迷悟」、「生死」と「自己」との二元対立の心を戒めた教えであるからだ。
 この続きは、来月号で語ります。

合掌