和尚さんのさわやか説法347
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 新年 あけましておめでとうございます。
 本年の辰年が、皆様にとりまして「昇り龍」の如く、そして社会も経済も運気が上昇せんことを切に祈るものです。

 昨年11月下旬、ある議員の報告会において講演する機会を与えられた。
 その時の「演題」は、お釈迦様の最後の説法と言われる「仏遺教経」の一節にある「善く提塘を治するが如し」とした。
-つまり-
 「政治」における「治する」とは、どういう意味なのか?
 それを明らかにしたかったからだ。
 そこで、まず「政治」の「政」とは、どのような意味があるのか、その漢字そのものの意味を分析してみた。
-その講演から-
まもなくして「パーティー券」なる政治資金規正法違反疑惑の問題が浮上し、年末の世相が一挙に混濁してしまった。
 キックバック、裏金作りといった政治家自身の「政治」のあり方や体質が白日のもとにさらけ出されようとしている。
「天網(てんもう) 恢々(かいかい) 疎(そ)にして 漏(もら)さず」だ。
 悪行は必ず露見するのである。

 そのことからも、講演でのテーマを新春特別号の「さわやか説法」で述べてみたい。
 私は、その講演の冒頭で、こう語った。
「政治」の「政」。
 つまり、『まつりごと』の漢字は「どう書くのか、皆さん書いてみて下さい」
「正しい」に「文」という漢字に似た「攵」を書きます。
「これは、「攵」(ぼくづくり)であり、手に棒を持って、たたく様子を描いた文字で、動作を表わすことに用いられるとのことです。」
「つまり、政治の『政』とは、正しいことを、棒を叩くような動作をすること、いわゆるオーケストラの指揮者が、「タクト」を振るようなことを表わす文字なのです」

-まさしく-
漢字の語源そのものに「政治」の意味が現われているではないか。
-では-
「正しい」の「正」とは何か?
 私は、若き修行時代、ある老師から、こう教えられていた。
 老師は語った。
「正しいの『正』とはな『一』に『止まる』と書く。」
「だからじゃ。一とはなにか それは物事の原点、本質をいう」
「その原点本質に止まるということだ」
「つまり、正しいとは原点に立ち戻り、見失わず静止していることなのじゃ」
「はぁっはぁー」
私は、頷き低頭した。
「年の始めの1月を正月と言うじゃろ」
「だからな。一に止まるから、正月と言うのじゃ」
 今度は、「ふっ~ん。なるほど」と、私は、頷き合点した。

-即ち-
「政治」の「政」とは物事の本質、社会の本質、あるいは人々の生活の本質、生死の本質に向かい止まり、指揮者の如く 自らが動き、人々を動かすということなのだ。
「正」に向かって タクトを振り続けることであった。

 古代中国は、孔子(BC552~479)が直言する『論語』にはこう記述してある。

 季康子 問政於孔子
 孔子対曰 政者正也
 子師以正 孰敢不正 (顔淵第12)

 いやぁー。漢文は、まっこと難しい。
 ましてや『論語』だ。では まず読み下してみよう。
 季康子(きこうし) 政(まつりごと)を孔子(こうし)に問(と)う。孔子(こうし)、対(こた)えて曰(いわ)く。政(せい)は正(せい)なり。
 子(し)、帥(ひき)いるに、正(せい)を以(もっ)てせば、孰(たれ)か敢(あ)えて正(ただ)しからざらんや。

 まだまだ難しい。
では、意訳してみよう。
 古代中国、春秋時代。魯の国の大夫(たいふ)(上級官僚)が孔子に「政治とは一体、何ですか?」と、尋ねた。
 そうしたら孔子が答えて言われた。
「政治とは、正しい行いをすることですよ」と…。
 あなたが 率先して正しい行いをするならば 誰が正しくない行いをするだろうか。

 孔子は 政(まつりごと)の本質はその字の如く「正なり」と喝破している。
 だからこそ、政治家は自らの使命を以てして、「正しい行い」と「正しい心」で率先すべしとの「政治」の肝要を季康子に説いたのだ。

 また、孔子はこうも説かれる。
 子曰。苟正其身矣、
従政乎何有。
不能正其身、如何正人。 (子路第13)

 子、曰く いやしくも、その身を正しくせば、政に従うに於いて何をか有らん。
 その身を 正しくする能わずんば 如何にしてか、人を正しくす。

-さあ-
 意訳してみよう。
 孔子先生が言われた。政治に従する者が、我が身も心も、正しくすることが本当に出来ていれば、政治を行うことは そんなに難しくはないよ。
 でもね。自分自身が正しい行動をしていないのに 国民を正しく導こうとするから難しくなるのさ。

-さあ-
 この『論語』で孔子が説かれる言葉を、「パーティー券」当事者の政治家先生方は 何と聞くであろうか。

-しかしながら-
 私自身も、地方議員の末端にいた張本人だ。
 まさに「論語読みの論語知らず」の和尚であることは 間違いない💧💧💧
 反省、自戒しなければならない。
 トッホッホッホ!!

 -次に-
「政治」の「治」について「さわやか説法」してみよう。
 先般の講演での演題は「善く提塘を治するが如し」と掲げ「治」するとは?の意味を語ってみた。
 この言句は、お釈迦様の最後の説法の一節である。
「若し定を得る者は、心すなわち散ぜず……水の惜しめる家の、善く提塘の治するが如し。行者もまた しかなり……善く禅定を修して漏失せざらしむ。
 是を名づけて定となす」
 この提塘とは、堤防のことである。
 では、意訳してみよう。
 心が安定している修行者は 心が散ずることはない。
 例えば 流れる川をしっかりと堤防を築いて、水を大切にする。
それは、まさに水を治めるようなことだ。
 実は、修行者もそうなのだ。その心の堤防を築いて、漏失させない。
 これが、心の安定ということなのだ。

 この修行者を「政治家」と置き換えてみてはどうであろうか。
 禅定を 社会の安定 政治の安定と 置き換えてみてはどうであろうか。

「若し社会の安定を得ようとする者は、心すなわち散ぜず。人々を大切にし、善く提塘の治するが如し。政治家もしかなり。善く心の安定を行い、漏失しない。これを名づけて本来の政治の安定となす」
 政治の「治する」とは、漢字の如く、台を築き水を「おさめる」ことにある。
 この「台」とは、まさに、自らの堤防であり、社会の堤防なのだ。

-更に-
「治」は「おさめる」と読むだけでなく、「治療」の「治」でもあり、「なおす」との意味もある。
 つまり、社会を「なおし」、経済を「なおす」ということでもある。
「政治」とは、漢字の意味からも、正しきことを自らが動作で示し、行い、自らが率先垂範して、人々を社会を「おさめ、なおす」ことであり、安定させることなのだ。
-今-
 それが問われている。
「政は正なり」
「善く 提塘を治するが如し」と……。

合掌 

※『論語』中の・点は筆者付記して明示した。