和尚さんのさわやか説法349
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
今月号もまた、「銭湯物語」である。
先月号の「大アクビ事件」は、結構皆さんからいろいろな御意見を頂戴した。
-もっとも-
多かったのが、「女風呂から 高山さんのアクビって 分かるのだろうか?」だった。
「本当に そうなの?」
「何で、分かったの?」
それらに対して私は、こう答えた。
「俺だって分からないよ……」
「だけど、事実 しっかりと女将さんから注意を受けたんだよね…」
「それより、女風呂の賑やかな嬌声の方がずうっと響いているけど」
「でも俺は ちっとも気にならないよ」
もう!!銭湯アクビ論争は尽きることなかった。
「銭湯は、公衆浴場なんだから、いろんな人が来て、お湯に入り、お互いが 身体を洗ったり ゆったりする憩いの場なんだよ」
「公衆っていうぐらいだから みんなお互い様なのよ!!」
最後は、そう締めくくった。
-昔、こんな事があった-
とある銭湯で、私が頭を剃っていた時のことである。
修業時代は、四と九の日が「四九日(しくにち)」と呼ばれ、修行安息日でもあり、入浴も許され、修行僧同士が、お互いに剃刀(かみそり)で頭を剃(そ)り合うのであった。
その習慣もあり、私は、少し頭髪が伸び始めると頭を剃る。
修業時代は、剃刀であるが、これは結構ヤバイ!!
-そこで-
現代は、電気カミソリの時代だ。
それも高性能の外国製の防水加工電気シェーバーだ。
これは、実に切れ味も良く、安全で、後頭部なんか、手さぐりでもツルンツルンに剃ってくれるのである。
それに、時間も速い。シェーバーだけに「シェバ、シェバ」と剃り上げてくれる。
その銭湯で、このシェーバーで剃っていた時のことだ。
右隣りの洗い場には、私よりご年配のおっさんが身体を洗っていた。
私は頭を剃り終わると、そのシェーバーの網目状(あみめじょう)の剃り口を開け、洗い落とそうとした。
何故ならば、その網目と、開いたシェーバー本体には、細(こま)かい我が毛髪が付着しているからだ。
私は、洗い場の自分を写す鏡の上部にあるシャワーを全開し勢いよく出した。
シャワーの勢いが、その網目に付着した微細な髪を除去してくれるからだ。
しっかり取り除く為に、私はシャワーの口元にピタッと、くっつけるようにした途端、勢い余ったシャワーの飛沫が散った。
-その時だった-
「こりゃ!!」
「もっと、静がっこにやらねば、ワさ、ウガのシャワーが掛かるじゃ!!」
(八戸弁ですので、普通語に和訳します)
「もっと静かにやらないと 私に、あなたのシャワーが掛かるのです」
「気を付けろ!!」
と、お叱りを受けた。
-すかさずー
私は反応した。
こともあろうか、相手の方に謝るどころか、
「お互い様だべ!!」
「銭湯はな!!」
「公衆浴場って言うんだ」
「公衆と言うぐらいだからみんなが入るどごだ」
「シャワーやお湯だの掛かったって、お互い様だべ」
こう、まくし立てると、隣のおっさんはグッと詰まった。
それを感じとった私は、「どうでェー」と心の中で叫び、平然とそのままシェーバーを洗い続けていた。
-そしたらである-
隣りのおっさんは、やにわに、ボディシャンプーを取り出すと、スポンジに「ジャワジャワ」と含ませ泡立てると、勢いよく身体を洗い始めた。
その飛び散る「おっさんの泡」が、私の右半身に降り掛かってくるのである。
顔の右半分にも右脚にもである。
「あちゃあー」
私は心の中で叫んだ。文句を言おうとするが文句は言えない。
-だって-
さっき私は、隣りのおっさんに言ったのだ。
「お互い様だべ!!」
「ここは、公衆浴場だよ!!」ってね。
私は、黙って「おっさんの泡」を浴びた。
そして、さっきまでシェーバーを洗い流していたシャワーを自分に向けて、その泡を流し始めた。
立って、どこかに行くのも降参したみたいでもあるし、「お互い様」の意地を張って、私は動かなかった。黙って耐えていた。
隣りのおっさんは、ひと通り、自分の身体を洗い終わると、今度は桶のお湯を頭からかぶるというか、ぶっ掛けるのだ。
井戸水願掛(がんか)け行者(ぎょうじゃ)の如く、全身に勢いよくだ。
-はたまた-
「おっさんのお湯」を浴びることになった。
「お互い様だべ」のツケが降り掛かってくるのだ。
きれいさっぱり洗い終わった隣りのおっさんは、気が済んだのか、「フン」と言い放ってその洗い場を後にして湯舟に入りに行った。
やっと、私の「お互い様の試練」が終ったのだ。
トッホッホッホ💧💧💧
-きっと-
「お湯の神様」は、私に教えたかったに違いない。
自分のし出かした事を棚上げして、相手のことを考えもせずに正当化しようとすることは、「お互いさま」ではないということを……。
「お互いさま」とは、相手を思いやってのことであり、自己主張、自我主張の為ではないということをだ。
相手に迷惑を掛けておいて、相手の立場を無視する形で「お互い様」と言うことは、まさに詭弁に他ならない。
お釈迦様の説かれた教え『法句経』に、このような一文がある。
よし髪を剃(そ)るとも
いましめなく
妄言(そらごと)をかたらば
彼は沙門(みちのひと)にあらず
欲望(ねがい)と
むさぼりとをそなえて
いかでか
沙門(みちのひと)たりえん (264)
分かりやすく意訳すると、こうだ。
きちんと髪を剃っていたとしても、自らを戒めることなく、妄言暴言を語るような者は、真の修行者ではない。
ましてや、自分のことだけを考えての願望や主張を言うならば、どうして修行者たりえるであろうか。
お釈迦様は、まさに剃刀の如くに、スパッと切り放った。
「よし髪を剃るとも」
「戒めなく」
「妄言を語らば」
「沙門にあらず」
「高山和尚!!」
「汝は沙門にあらず」
「和尚にあらず」だ。
「ハッハー」
私は、お釈迦様の前に ひれ伏していた。
-あの-
「銭湯大アクビ事件」も、そうなのだ。
隣りの女風呂の女性客のことも考えず、自分だけリラックスしている。
電気シェーバー事件も同様だ。
自分のことしか考えていないのに、なにが「お互い様」なのか。
お釈迦様も、お湯の神様も、私に僧侶としての心を教えてくれたのだ。
「毎日、銭湯に入っても、心の汚れを洗い流してないぞ」
「髪を剃ったとしても剃っただけだ、心の汚れを、きちんと剃りなさい!!」
「煩悩の神を、しっかりと剃れよ」と……。
合掌
参照/『法句経』友松圓諦訳 講談社学術文庫