和尚さんのさわやか説法263
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 先月号までは、東京での学生時代における丁稚修行体験を書いた。
 実は、その体験は学問ではない実地の「仏道修行」であり、「仏の教え」を学んでいたのではないか。ということであった。
 そのことを、時を経て感ずるようになり、読者の皆さんに紹介してみた。

 その「鯉する奮闘記」パートⅠ、パートⅡを読んでくれた何人からは、直接に、また電話での感想が寄せられた。
 「和尚さん!!おもしろかったよ!!笑えたり、思わず涙が出ちゃったよ(^v^)」とか
 「和尚さんも、アルバイトするんですかぁー」
 「そんな体験談を実際に聞いてみたい」とか「是非とも、講演して下さい」とも言われた。

—てなことで—
 今月号もまたまた、学生生活のアルバイト物語である。
 ともかく、毎日が「腹へったぁー」の貧乏苦学生であるからにして、アルバイトをしては食いつないでいた。
丸の内の三菱重工ビルや六本木にあるIBMビルの建設工事現場でのガードマン、はたまた地下鉄の穴掘りの雑用人夫さんもやった。
 これらは、バイト賃が高いということもあったが、すべての共通点は「飯場」や「社員食堂」があり大盛りの丼めしが食えるという事であった。(T_T)
 あるいは、デモ隊にも参加した。そこでは主義主張をシュプレヒコールするのではなく、こちとらは終った後の弁当にありつけることが目的であって、「腹へったぁー」のシュプレヒコールであり、声を枯らして叫んだ後の弁当は、ことさらに旨かった。
(情けないデモの行進です(T_T)(T_T)(T_T)今さらながら、反省してます(T_T))

 先月号でも書いた「鯉する奮闘記」の「枝川」という「ウナギ料理屋」はもとより、幾多のアルバイト変遷をして最終的に落ち着いたバイト先は
—なんと—
 「お寺」のアルバイトだったのである。
 ある時、一人の仏教学部の同級生である友人が、こう言ってバイト話を持ち掛けてきた。
 「おい!!高山。お前、棚経(たなきょう)のバイトしてみないか?」
 時はジリジリと暑くなってきた東京の七月初旬のことである。
 「えっ?棚経って?」
 「お前!!棚経を知らないのかぁー」
 「棚経ってのは、お盆に檀家さんの一軒一軒を回って読む御経のことだよ」
 「上野にある円通寺というお寺に俺、行っているんだよ」
 「お前も、一緒に手伝ってくれないか。人数が足りなくて困ってんだよ」

 上野は三ノ輪の円通寺という寺は、幕末期、「彰義隊」が立て籠り上野戦争の舞台地にもなった歴史ある寺院であった。
 平成の現代でも、その戦い跡として墓地入口にある「黒門」には、幕末動乱の鉄砲の弾痕や刃の傷痕が見て取れる。

 東京のお盆は、八戸と異なっていて、7月の13日〜15日がお盆週間である。
 棚経(たなきょう)とは、いわゆる「盆棚(ぼんだな)」「精霊棚(しょうりょうだな)」の前でお経を読むことであり、檀家さん一軒一軒を訪ね回り、そこでお盆の御経を唱える。
 三ノ輪の円通寺は、都内でも有数の規模を誇る。数千軒の檀家さんがあり、住職一人で回りきれるものではない。
 そこで、一軒一軒回る為に、多くの臨時的お坊さんが必要なのだ。
 その補給先が曹洞宗の仏教大学である駒沢大学の学生アルバイトであった。
 なるほど、行ってみると、ごちゃごちゃと臨時坊さんである先輩、後輩、同輩の学生らが集まっていた。
 「おっ!!高山。お前も来たのか。よろしくな」
 「ハイ、こちらこそ、よろしくお願いします」
 挨拶もそこそこに、
 「お〜い。集合!!」
古参の先輩が響く声で皆なを呼んだ。
 「これから、檀家さんの名簿を配る。各自、それぞれの檀家さんをチェックし、そこにある都区内地図を参考にして、しっかりとやってくれ!!」
—なんと—
 都内全域に点在する檀家さんの家を地図を頼りに回るのであった。
 現代のようにスマホ、ナビがある時代とは違う。
 電車やバスを乗り継ぎ、目的の檀家さんを捜し歩いてはそこで読経を勤めるのだ。
 こちとらは、大学の近くの駒沢界隈や渋谷の飲み屋街ぐらいしか分からなく、ましてや都内の住宅地なんぞ分かりようがない。
 それでも、何とか捜し当てては汗だくになりながら、待っている檀家さんの家を回る。
 一日、30〜50軒をこなさなければならない。
 檀家さんは、学生バイトの臨時坊さんであろうが、ヘタな御経であろうが喜んで迎えてくれ、終わると冷たい麦茶やジュースやらを御馳走してくれ、何かしらお話を持ちかけてくれる。
—しかし—
 こちとらは、回る数をこなさなければならない。時間との戦いだ。
 「すみません。次に回るもんで…」と辞退する。
 「あら!!あなた、どこの出身の学生さん?」とか、「もうちょっとゆっくりしてね」という、おばあちゃんの引き止めを振り切って、次ぎに向う。
—というのも—
 実は、数が勝負なのである。つまり、この棚経バイトの魅力は、檀家さんから頂戴するお布施が歩合制だからであった。
 その当時、東京での棚経のお布施は一軒が二、三千円である。
 円通寺では、棚経臨時坊さんのバイト賃は九割が取り分で、残りの一割をお寺に食費代として、お返しするのであった。
 お寺としては、ともかく全檀家さんを、このお盆期間中に回って、それぞれの御先祖供養をしてもらいたいとの菩提寺としての責務ではあるが、こちとら学生アルバイトの臨時坊さんにとっては、その九割のバイト賃欲しさである。
 夕方、歩き疲れて帰ってきては、そのお布施を数えては、一喜一憂している自分がそこにはあった。
—まさに—
 本来の和尚さん修行とは天地懸隔たる御経であり、仏道修行とは言えるものではなかった。

 『華厳経』の一節に「人、他の宝を数えるも、自ら半銭の分なきが如し」との、訓誡がある。
 いくら坊さんの身なりをしていようとも、経を読んだとしても、それは単なるバイト代欲しさであって、檀家さんの為でもなく、他からの宝を数えては、仏教学部の学生としても、坊さんの卵としても、まさに「半銭の分もなきが如し」であった。(今だから、言えますが、その苦学生当時は一生懸命、稼ぎたかったのは本音です…。)

—だからこそであろうか—
 バカな学生達に夜、その円通寺の方丈様や奥様からは、夕御飯の後、いろいろな訓示がなされた。
 こちとらは、疲れ果てて、早く布団に入りたいのだが、ともかく台所の隣り部屋に集められては、延々と話をされる。
 方丈様は寺の住職でもあられたが、工学博士の称号を取得した理系の教授でもあった。
 その知識は、仏教学、禅宗学、そして工学関係の大家でもあり、多才多智であった。それ故か、昭和40年代には、普及していなかった今でいう電卓やパソコンらしきものもあった。
 ともあれ、そこでは大学で学べない知識や仏教者としてのあり方をとくと、語られた。
 それも、早口でまくし立てながら、色々なことを教えるのであった。きっと将来のお坊さんを育てて上げたいという熱意が込められていたのであろう。私達は眠気を抑えながらも聞き入っていた。
 それにもまして、おもしろ、おかしかったのは、方丈様の奥様のお話しだった。
 奥様は東京下町の商家から嫁がれてきて、チャキチャキの江戸っ子お嬢様である。
 奥様は、学生達を、我が子のように可愛いがり、時には、江戸っ子弁のべらんめェ口調で叱咤し指導してくれた。
 学生達は「おふくろ」「おふくろ」と呼んでは、怒られたり、笑い合い台所から離れなかった。
—さてさて—
 紙面も尽きたようで、
 この続きはまた来月の「さわやか説法」で。

合掌