和尚さんのさわやか説法299
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
3月の春のお彼岸の前日のことである。
私は、「ぎっくり腰」になってしまった。
その日の朝、布団からガバッと起きた時、腰に妙な違和感を覚えた。
それでも、本堂の扉を開け、御本尊様に礼拝をして、いつも通りの朝の動きをしていた。
その日は日曜日でもあり、檀家さんの年回御供養のおつとめが続き、午後1時には、お葬式が予定されていた。
その合間を縫って、午前10時30分に、八戸市公会堂で、あるイベントが開催されることから、御招待を受けていたこともあり、着物姿のまま慌てて車に乗り込んだ。
公会堂前に一時的に駐車して足早に、その会場に顔を出して、また急いで、車に戻り運転席に身を沈め、ドアを閉めようと背筋を伸ばした時だった。
「ギクッ」と腰が鳴ったのだ。
「ウッ」と声が出たまま硬直化してしまった。
そのドアを閉めようにも閉めれないのだ。
—ちょうどその時—
ドア越しに、通り掛かった親子の姿が見えた。
「すみませ〜ん!!」
「ドアを閉めてくれませ〜んかぁー」と叫びたかったが。
何だって、こちとらは無断駐車しての車中だ。
「和尚が、駐車禁止の場所で…」
なんて思われるのではないかとの考えが一瞬頭の中をかけ巡り、
私は、その声を押し殺した。
そのドアの取っ手の遠いこと遠いこと。
何とか、痛みをこらえ、やっとのこさ、かろうじてドアを閉めることが出き、のけぞりながら車を運転し、お寺に戻った。
—しかし—
それからが大変であった。おつとめの続行と、特に午後1時からの「お葬式」だ。
休むわけにもいかず今さら、誰かに頼むわけにもいかない。
無理やり腰を叩き、腰をなだめ、読経し、その後、式場の葬祭会館に向った。
僧侶という者は衣(ころも)を身に着け、お袈裟をまとうとシャキンとするものだが、いざ歩き始めると、如何せん身体が縮(ちぢ)こまって前かがみになってしまうのだ。
—私は思った—
もし、このような状態で葬儀場に出向いたなら、御遺族はもとより御会葬の参列者の方々は、どう思うかである。
「和尚さんは、何であんなに前かがみなんだ」「ずいぶん年をとったなあ〜」とか
「何か悪い病気にかかってるんだろうか」
って思われるのではないか。
—そこで—
私は司会担当者を呼び、こう言った。
「お葬式の開式の言葉の前にアナウンスしてもらいたいことがあるのです。」
「えっ?開式の前にですか?」
「どんなことですか?」
私は、ことの経緯(いきさつ)を説明した。
司会担当者は
「はい。分かりました。そういうことでしたら、そのように皆様にお話してみます。」
—時至りて—
司会者は、こうアナウンスした。
「本日、導師を勤められます常現寺住職様は、今日の午前に、ぎっくり腰になりまして、腰が曲がったまま式場に入ります」
「尚、読経は曲がらずに、真っ直ぐお唱えしますので御安心下さいとのことです。」
このアナウンスに厳粛なる葬儀場が一瞬にして、和んでしまった。
参列者の中には「プッ」と吹き出す方もあったという。
「只今より、導師の入場です」との司会者の声に、一斉に皆さんの視線が「腰曲がり導師」の私に集中した気がした。
私は、腰が曲がろうが、痛かろうが読経の声には影響はない。いつも以上に声に張りを持たせて、逆に朗朗とお唱えした。
—何とか—
無事、お葬式を終えて控室に戻る時、介添えの女性スタッフに私はこう言った。
「お年寄り高齢者の気持ちが、つくづく良く分かったよ」
そして、ふっと突いて出た言葉が
「子ども叱るな 来た道じゃもの!!
年寄り笑うな、行く道じゃもの!!」
という昔の古歌だった。
私達は誰でも年を取り、老いていく。
やがて必ず通る人生の道であるのだ。
だからこそ、年を取ってから気づくのではなく、お年寄りの方々の身体の不自由さや、その苦しみに思いを寄せて、いたわりや思いやりの心を持たなければならないのである。
女性スタッフは、腰を曲げながら痛そうに顔をしかめて語る私を見て
「和尚さんは、そんなに痛いのに、よくそんな言葉を思い出しますね」と、あきれ顔で微笑みを返してくれた。
—私は更に続けて—
腰をさすりながら、こう言った。
「だからね。子供も叱っちゃ駄目なんだよ」
「自分だって、子供の時があった。叱られれば、イヤな気持ちになる。誰でも子供時代を通って来たんだから、そのことに思いを馳せて、叱るんじゃなくて励まして上げるんだよ」
「現代の世相は、親が我が子をイジメたり、虐待したりする事件が全国各地で起きている」「その親だって、子供の時があったんだから、そのことを思い出して子供に決して暴力を振るっちゃいけないんだよ」
—つまり—
「子ども叱るな 来た道じゃもの
年寄り笑うな 行く道じゃもの」の古歌の真意は、自分が来た道であり、やがて行く道であるからこそ、その立場に立ち返って、その身となって考えよ!!ということであった。
道元禅師の教えに「菩提心(ぼだいしん)の行願(ぎょうがん)がある。その行いと願いの心として「四無量心(しむりょうしん)」を説かれる。
四つの無量なる心とは、「慈心(じしん)」「悲心(ひしん)」「喜心(きしん)」「捨心(しゃしん)」の心であって、
一つは、相手をいとおしみ慈しみいたわる心。
二つは、相手の苦しみや悲しみを自分のこととして受けとる心。
三つは、相手の喜びを自分の喜びとし、また自分の喜びを相手に与える心。
四つは、全ての人に思いやりの心で寄り添い自己中心的な考えを捨てた公平なる心。
以上四つの無量にして相手をいたわり思いやる心のことをいうのである。
この四無量心は、相手の身となり、寄り添う心であり、まさに全てのことに通じる「無量の心」でもあるのだ。
私はこの度の彼岸前の「ぎっくり腰」を体験して、お年寄りの気持を身をもって体感したからこそ、このことに、あらためて、気づかされた。
まだまだ和尚としては未熟です……。(T_T)
トホッホッホッホ💧💧💧
因みに、お彼岸中は毎日が忙しく病院にも行けず、湿布薬を貼って耐えた。
ぎっくり腰によって私は、布団で寝るにしても、座っても、立っても、ニッチもサッチもいかず、その痛みに苦しんだ。
—その時—
「腰」という漢字の意味も、得心したのであった。
「月」は肉月(にくづき)偏であるが故に、人間の肉体や身体のことをいう。
例えば肺とか腹とか胸とか脚とか腸であり、これらは「月」偏である。
ということから、「腰」は、まさに自己の肉体の「要(かなめ)」だったのだ。
そのことを、まざまざと実感した。
今般の「ぎっくり腰体験顛末」は、いろいろなことを私に教えてくれた。
「ぎっくり腰よ!!」
「ありがとう!!」
「あなたのおかげで腰が如何に重要なのか分かったよ」
それと、「相手の身になり、寄り添う心を教え気づかせてくれてありがとう!!」
合掌