和尚さんのさわやか説法298
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
皆さんは自分の背中を見たことがあろうか。
人の背中を見ることは出来ても、自分で自分の背中を見れるのは鏡を使ってもなかなか見れない。
私は銭湯(公衆浴場)に、よく行く。
湯船につかっていると洗い場に座って体を流しているお客さん方の背中を目にする。
ということは、自分の背中を自分で見ることが出来ないからこそ人には自分の背中を見られているということになる。
—もう—
30数年前のことだ。私の弟とまだ未就学児の幼い娘の物語である。
つまり私の姪っ子の銭湯での出来事だった。
弟が洗い場で体を洗い流している時のことだったそうだ。
—突然—
娘の笑い声が浴場内に響いたのである。
「お父さんお父さん。見て見て。猫!!ネコ!!」
「キャハッハッハー(^^)」
なんと!!姪っ子は、屈強な男の背中を指さして笑い転げていたというのである。
弟はびっくりして立ち上がり、娘の笑い声の方向に眼をやると、ぞっぞおーっとした。そこには「虎」が描かれていた背中が写し出されていたからだ。
もう驚いたのなんのって…。
ダオッと、駆け寄ると娘を小脇に抱えて「すみませんすみません」と連呼しては、サウナに入った以上の大汗がどおーっと出たとのことであった。
—しかし—
その屈強なる虎が彫られていた男は、黙って鏡に向かったまま髭(ひげ)を剃っていたという。
姪っ子には、その背中の「虎」が「猫」に見えたのであろう。
あるいは、まだ虎という動物の概念が無く可愛いネコとしか見えなかったのか?
私は、その弟と姪っ子の銭湯物語を聞いた時、その状景が目に浮ぶと同時に唸るものがあった。
—それは—
その屈強なる男が振り向きもせず、黙って動ずることもなく髭を剃っていたという事実にだ。
私は弟にこう言った。
「その男は大物かもしれんぞ!!」
「普通だったら、何をこの野郎!!」
「俺様の虎が猫だって言うのか!!と、怒鳴りまくられるところだぞ!!」
「それなのに、何も気にせず、身じろぐこともないとは、かなりの男だよ」
私達大人には屈強な男の背中の絵は「虎」に見えるし、屈強なるが故にそう見えてしまうのだ。
しかし、幼子には「猫」に見えた。
—きっと—
その男は、いつも背中を見せ、人に見られていることを意識しての堂々とした生き様を示しているのではないか。
もしかすれば、虎の如くの強さを持ちながらも、反面、猫のような優しさも持ち合わせる男なのであろう。
決して虎の威を借りて他に誇示するのではなく、自己の内面において虎の如くに強き男なれと、鼓舞する意味での「背中の虎」であったのではないか。
—ひるがえって—
私達は人に背中を見られていることを意識していない。
つまり、私達はいつも人前に自分をさらけだしているわりには、自分が見られていることを意識していないのである。客観的に自己を見ることがない。
あの屈強な男のように平気で自分の背中を見せ、常に見られていることを意識していないのである。
—昔—
修行時代のことである。ある参禅道場に行き坐禅をしている時のことであった。
坐禅を指導する師家(しけ)たる和尚様が面壁(めんぺき)している私達にこう言われた。
面壁とは、壁に向かって坐禅をしている姿のことだ。
「諸君は!!自分が坐禅をしている坐相を見たことがあるか」
「私には、諸君らの坐相がここから見て取れる」師家たる和尚様の坐っている位置は、壁に向って坐禅しているのとは逆に、壁に向わず正面に向って坐っている。
つまり、私達一人ひとりの坐禅をしている姿や背中が見えているのであった。
「諸君がどのような心底で坐禅をしているのか私には見える」
「ただ漫然と坐禅をしているのではない」
「きちんと性根(しょうね)を入れて坐禅をするのだ」
私は、ギクッとした。
そうして次にこう言われた。
「坐禅をしている時、その自己の姿を自分で見るのだ」
「自分の眼で自己の後姿や坐っている背中を見ることは出来ない」
「しかし、もう一人の自分の眼を後方に置き、意識して見るのだ」
「そう意識することで自分の坐相が見え、背中を見ることが出来るのじゃ」
その師家和尚様の「喝」を聞いた時、私は背筋がシャキンとなってしまっていた。
—爾来—
その教えから坐禅の時はもとより、御経を読んでいる時、あるいは布教法話をしている時も、もう一人の自分の眼を斜め45度上に置いて自分の姿を見るように意識している。
—なるほど—
その意識をすればするほど、今の自分の姿やその心が客観的に見てとれるようになってきた。
—でも—
私は凡人であり凡愚な和尚である。
この意識を時折どころか、しょっちゅう忘れてはアタフタとして自分を見失っている。意識する「意識」さえ無くなっている始末だ…。
トホッホッホ💧💧💧(涙)
「人の背中を見て学ぶ」あるいは「子は親の背中を見て育つ」という格言がある。
この意味は、私達が師匠や親を、あるいは上司や先輩方の先人が教えずとも教えていることを自分の学びとして受け取り、自分の生き方や心の磨きの糧とすることである。
ということは、師匠や親、また上司、先輩もまた、弟子や子供には、いつも見られ、知らず知らずのうちに学び取られているという意識を常に持っていなければならないのである。
—即ち—
人には、いつも背中と見られているのである。このことは単なる背中のことではない。その人の生き様、生き方を見られているのであった。
だからこそ自分の生き方を、自分で見て確かめる「もう一人」の自己の眼という意識が肝要ではなかろうか。
皆さんは「自分の背中」が見えますか?
もしかしたら現代の私達は「スマホ」画面から自分を見ていませんか。
「人の背中を見て学ぶ」ではなく「スマホ」を見て学び、「親の背中を見て育つ」ではなく、スマホ画面という背中を見させて育てていませんか。
合掌