和尚さんのさわやか説法248
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 NHK朝の連続ドラマ「あまちゃん」が終了して約1ヶ月半・・・。
 今、私は「あまロス」の状況が続いている。
 決して「尼ロス」ではありませんよ!!
いくら私が和尚だからといって、「尼ロス」なんて言おうものなら、我が寺は修羅場、修羅寺となり、それこそ、「あまちゃん」のアメ横女学園の「奈落」ではないが、その底の底に落ちてしまうことになりかねない。
 「あまロス」とは、「あまちゃん」の放送後、心にポッカリと穴があいたような喪失感のことであり、「あまちゃんロス症候群」の人を言うものである。
—てなことで—
 放送終了後、「あまちゃん」のCDを購入してから、朝起きては本堂にお参りの後、奥さまのいないのを見計らって、あのオープニングテーマをかけている。
—すると—
 今日も一日がんばるぞぉ—。っと元気がみなぎってくるから不思議である。
 あの「あまちゃん」のオープニングテーマの作曲はもちろん、劇中の音楽全てを担当した「大友良英」氏と脚本家「クドカン」こと「宮藤官九郎」氏が対談の中でこう語っていた。(注1)
宮藤 オープニングテーマ、大好きです。(中略)
大友 やっぱり毎日かかる曲ということを意識しましたね。普通、同じ曲を毎日聞かされたくないですから。
宮藤 そうですね。だけどあの曲って、聞けば聞くほど味わいが深まるというか……。
大友 出だしが「ドレミファソラシド」で始まっていて、基本的にすごくシンプルなメロディーなんです。
大友 イントロは運動会っぽいし、そのあとは昔の喜劇映画のようになって、サビは歌謡曲のメロディーとコードがいくつも入っています。
大友 見ている人のいろいろな記憶を刺激する曲にしたいと思ったんです。
宮藤 確かに、懐かしさが感じられる曲なんですよね。

 私は「なるほど」と大いに納得合点してしまった。どうりで、あの曲を聞くと、何かしら心躍り、力がみなぎってくるというか、それでいて昔に聞いたことがあるような……。そんな思いがしていたからである。
 それがキチンと「計算されて作られていたとは」と唸ってしまった。
 実はあのオープニングにしても、ドラマの劇中の伴奏(劇伴)も「潮騒のメモリー」に、あるいは「地元に帰ろう」等々の挿入歌も、全ては大友氏の作曲であり、歌詞は宮藤氏によるものであった。
—そのことに—
気づかされたのは、先月10月3日、八戸市公会堂においての公演。「大友良英&『あまちゃん』スペシャル ビッグバンドコンサート」開催の噂を聞き、その演奏と大友氏の絶妙なトークを聞いてのことであった。
 社会現象ともなった「あまちゃん」フィーバー。私なんぞは、朝BS放送で7時30分から、そしてNHK放送の8時、それにお昼の12時45分と計3回見ては楽しんでいた。

 それは、脚本の面白さや出演者の演技や、女優の能年玲奈や橋本愛のピュアな可愛らしさ。あるいは小泉今日子、薬師丸ひろ子、宮本信子や海女さん軍団等の熱演は勿論のこと。
 随所に表れるパロディーやダジャレ満載のコミカルな展開のみならず、そのドラマを支える劇中の風景や情景を描く音楽そのものにもあったのだ。

 それを思い知らされたのは、当日の「あまちゃんビッグバンド」の演奏からであった。
 あの「あまちゃん」の劇中伴奏、挿入曲、背景曲BGM全てが、その一曲一曲がどのような思いで作曲され、どのような場面で入れられたか詳細に語られることによって分かった。
 大友良英氏の「あまちゃん」でのエピソードや出演者の皆さんとのハプニングとかを混えながらのトーク。はたまた、いろいろな場面に、如何なるテーマを設定し、曲作りに精魂をついやしたかの熱い想いが語られることによって、会場の観客を「あまちゃんワールド」に誘い魅了し、そして頷かさせるのであった。
 まさに、ドラマが音楽を生み出し、音楽がドラマを作っているという一体化劇が「あまちゃん」だったのだ。
 そのことの現実を私は八戸市公会堂で体感した。私は今まで、いろいろな演劇やコンサートに出会うことはあったが、これほどまでにして、舞台と客席が一体化し、いや一体化以上に異常な興奮のるつぼと化した現象は初めて見た。
 それは、あのオープニングテーマ曲が演奏された時の当初から始まった。いきなり手拍子、歓声、音響が複合し、誰もが笑顔なのだ。
 そして次々と繰り出される劇中伴奏と大友氏の曲の解説やトークから、ドラマの一場面一場面を想い描いては、今、八戸の公会堂にいるはずなのに「あまちゃん」の世界に入り込み、観客そのものがドラマと一体化しているのであった。
 まさに不思議な現象である。
 この一体化、一体感はドラマと音楽ばかりではなかった。
—それは—
 地方と中央の一体化ということだ。北三陸という地方と東京という中央の一体感である。
 このことを脚本家の宮藤官九郎氏は狙っていたのではないだろうか?

 そのことを如実にもの語るのが、東京出身の天野アキちゃんが、「じぇじぇじぇっ」から始まり、次第に訛っていき、その北三陸の訛りから、祖母や母の故郷の風土に気づき、東京へ戻ってからも、そのまま使い続けていく。
 それとは逆に、北三陸出身の足立ユイちゃんは、地方なのに訛らず、中央の言葉、東京弁を話している。
 この設定は計算された上での脚本だ。
 その地方と中央との一体化とは、単に地方を中央化することではない。中央を地方化することでもない。
 地方は地方の良さがあり、地方の言葉は、そのままが言葉の良さや人情なのであって、東京は中央としての良さがあるのだ。
 それは、同一化しての一体化ではなくして、互いの良さを前面的に打ち出し、そして互いに認め合っていく、気づいていくことが真の「一体化」であり、「一体感」となるものではないかということである。
 
 このことを学んだのは大友氏が作曲した「地元に帰ろう」という劇中歌について演奏し、トークをした時のことであった。
「♬地元に帰ろう 地元で会おう あなたの故郷 私の地元……。地元 地元 地元に帰ろう……。♬」(注2)大友氏の語る曲の意味する心を聞いてガツンと衝撃を受けた。

 「私の思う『地元』とは出身地のことではないのです。私の地元とは、帰りたくなる所、帰りたい所、それが『地元』なんです」
 更に大友氏は言う。
 「それは、私が安らぐ所であり、帰りつく所。それが『私の地元』です。」
—そう言って—
 「今の私の地元はここ『八戸』かな?」と観客に向かって投げ掛けると皆なは手を打って笑いころげた。
 私は、その想いを聞いて、グクッと息を飲むと同時に、突如涙が溢れ出た。
 私は、てっきり「地元」とは出身地のことだと思っていたが、そうではないのだ。
 地元とはそこに住む人々の地ということばかりではなく、皆なの愛する地であり、安住の地であり、自分が安らぎ、帰りたくなる所、帰りたい所という、それがその人にとっての「地元」ということなんだと……。

 まさに、ここには中央とか地方とかのことではなくして、人としての帰結する心と地域の一体感ではなかろうか。
—「地元に帰ろう」—。
 この「帰ろう」の意味を来月号では、仏教的に論じてみたい。
 そのことからも、いまだに私は「あまちゃん」から離れられない。やっぱり私は「あまロス」です。

合掌

  
注1/NHKドラマ・ガイド 
   あまちゃんPart2
注2/詞 宮藤官九郎
   曲 Sachiko M、大友良英
   あまちゃん歌のアルバムより
参考/NHKドラマ・ガイド あまちゃんPart2 ミュージックマガジン
   2013年9月号 特集 音楽から見た「あまちゃん」