和尚さんのさわやか説法245
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
これまで「いただきますの心」を4回にわたり連載してきたが、今月号は、「ごちそうさまの心」と、その意味について紐解いてみたい。
それも、禅宗での食事作法と、その時に唱える「偈文」から解明してみよう。
—そもそも—
「ごちそうさま」の「ちそう」とは、どういう意味なのであろうか?
この「ちそう」は「馳走」と漢字で表記するが、ここに「御(ご)」が付いて「ご馳走」になると、ちょっと意味が異なってくる。
その「ご馳走」に更に「様」が付いて、「ご馳走さま」となると、またまた意味が異ってくるから面白い。
—そこで—
この三者を順に解説していくと、「ごちそうさま」の本質的な意味が分かりそうである。
まず第一に「馳走」であるが、訓読みすると「はせ走る」とのことから、かけ走る。あれこれ奔走することであり、また、そのように走りまわって世話をすることである。
よって、その世話に奔走することから、ふるまいやもてなし、饗応する意味となるのだ。
故に、馳走とは相手に対して、かけ回り、いろいろと奔走し世話をして、精一杯、心を込めてもてなすことであった。
次に第二点目は、この「馳走」に「御」が付くと、丁寧語となり、「おふるまい」「おもてなし」となって、それが転じて、走り回るほど気持ちを込めて作った食事ということから、美味しくなった料理、素晴しくなった料理との意味となるのである。
そして第三点目は、その「御馳走」に、更に末尾に「様」(さま)が加わると、感謝する意が込められた挨拶語となり、それ故に日常の食後における「挨拶」の言葉に転じたというのである。
つまり、「ごちそうさま」をいう言葉は、食事を作る人が、食べる相手に対して「馳せ走る」ほどに一生懸命作ってくれた美味しい料理であるからにして感謝の心を表わした丁寧なる挨拶の言葉なのである。
しかるに、単なる食べ終わった後の合図の言葉ではないのだ。
その感謝の心を動作として表現するのが、「合掌の心」であり、手を合わす行動となるのであった。
「いただきます」にしても、「ごちそうさま」にしても。どちらも「感謝」と「愛情」の表現であることは確かなことだ。
そのような愛情あふれる行為であるからにして、「ごちそうさま」の別の意味となるのが、若いカップルや恋人同士や夫婦の仲良い場面を見せつけられた時なんか、「ごちそうさま」なんて、からかう時に用いたりもする。
以上のことを踏まえて禅宗(曹洞宗)の食事作法の「ごちそうさま」について展開したい。
今まで「さわやか説法」において、禅宗の食事作法で唱える偈文を通して「いただきます」の意味を述べてきたが、食事が終ったところでまた偈文を唱える。
これが、禅宗的な意味での「ごちそうさま」の心であると私は考える。
応量器という食器に盛り付けられたお粥、あるいは御飯、そしてお味噌汁に漬物を食べ終えると、「香湯(こうとう)」または「浄水」(じょうすい)と称せられる「お湯」をそそいでもらう。
香湯とは、香りあるお湯であるからにして「お茶」のことであり、浄水は、沸かした白湯(さゆ)のことである。
これを応量器にもらい受けると、それをすぐに飲むのではなく、そのお湯で、器にくっついているお米や味噌汁の残りを「折」(せつ)という平べったい「へら」のような道具あるいは、一切れの沢庵(漬物)で、洗い落すのであった。
それで、それぞれの食器を順に洗うと残りカスが、そのお湯と混ざり合っている。
そこで、こういう偈文を唱える。
「我此洗鉢水(がーしせんばつすい) 如天甘露味(にょてんかんろみ) 施与鬼神衆(せよきじんしゅう) 悉令得飽満(しつりょうとくぼうまん) 唵摩休羅細沙婆訶(おんまくらさいそわか)」
直訳すると「我れ この鉢(器)を洗いし水は、天の甘露の味の如し。鬼神衆に施し与えて 悉く飽満を得せしめん。オンマクラサイソワカ」ということである。
更に、分かりやすく言うと、今、この食器を洗った残水は、まことに甘露のような美味しい味がする。それを私は地獄で飢える餓鬼に施し与えましょう。
そして全ての餓鬼のお腹を飽満にさせて上げたい。
その為に真言である咒文を唱えます。
「オンマクラサイソワカ」と……。
この全員分のお湯を小さな桶に受けとり、役目の和尚様は実際的には、外の大きな木の根元にそそいで、草木の滋養とするのであった。
つまり、自分が食べるということは、食物という他の生命をいただいて生かされているのだから残さず全てを食べきり、それでも残った米粒は、お湯で洗い、それを地獄の餓鬼に与え、食べてもらいましょうというということであり、絶対に粗末しませんという心と行動であった。
私なんかは、粗末にするどころか、その残り水を飲んでしまっている。これは実にうまいのである。美味だ。
その全ての生命への感謝と、全ての生命への愛情が「ごちそうさま」との意味であるということなのだ。
そして一番に最後に「維那」(いのう)と呼ばれる修行僧を統括する和尚様が、こう高らかに1人で唱える。
「処世界如虚空(しょせかいにょこくう) 如連華不着水(にょれんげふぢゃくすーい) 心清浄超於彼(しんしょうじょうちょうおひ) 稽首礼無上尊(けしゅらいぶじょうそーん)」
食事を終えて、私達がこうして生きている世界に処することは、まさに執着を離れた澄んだ空のようになり、それは、あたかも蓮華の花に付いた、水滴が玉の如くとなり、いささかも煩悩が着かない。
このことは、心が清浄となり、虚空を超えることだ。これは、まさに無上に尊いことであるからにして、頭を垂れて心より手を合せ礼するのである。
ここに「ごちそうさま」の意味が帰結しているのではないか。
つまり、自分の心が清浄となり、自己も食事そのものも、無上に尊いからこそ礼するということなのだ。
このようなことから、最後に「ごちそうさま」の意味を私なりにもっと分かりやすく、語呂合せて作ってみた。
—それはこうである—
ごはんもおかずも
ちょうだいしました
そまつにしないで
うけたいのちに
さいわいなれと
まごころこめて
ごちそうさまでした (注)
いかがでしょうか。
どうぞ皆様、食べ終ったら「ごちそうさまでした」と言って感謝と愛情込めて手を合わせると、きっと体も心も清浄にして育まれていくと思いませんか!!
合掌
(注)曹洞宗東北管区教化センター資料 「声に出して唱えたい五つのいただきます」 参照