和尚さんのさわやか説法240
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今月の11月11日は「いただきますの日」だったという。
 私は、今まで聞いたことも知る由もなく、ビックリし、感心してしまった。
「いただきますの日」というのは、日々の食卓に関係する、さまざまなつながりに感謝し、その大切さを、皆さんと考えていくプロジェクトのことだそうだ。
—そして—
 そのイメージが並んだ二本の「お箸(はし)」が、数字の「11」を連想することから、11月11日を「いただきますの日」と設定したという。
 私は、このイメージ設定に「スゲェー」と唸り、思わず膝を打った。
 この「さわやか説法」では、書き始めて2年目のころの平成3年11月号で「いただきます」とのタイトルで、その意味するところと、特にその「心」について書き上げている。
—しかし—
 今、それをあらためて再考したくなった。
 実は、こんなことがあったからだ。
 10月下旬、出張にて、とある都市のビジネスホテルに宿泊した。
 そのホテルは朝食無料のバイキング形式であり、そこで食事した時、窓際のカウンターに座った青年が私の仕草につられて、同じことをしたのであった。

 私の朝食はやっぱり御飯にみそ汁、それにきんぴらゴボウと煮っころがしの純和風メニューである。
 一つ席を置いて右隣にその青年が座った。チラ見するとメニューは、コーヒーと食パン一個に生野菜というヘルシーメニューだ。
 私は、1人ながらもいつもの如く、「いただきます」と声に出して言い、食膳の御飯さん達に手を合わせると、隣から、
「えっ?」と言う声が聞こえた。
 私は思わず青年の方を見ると、彼はフッと目をそらし、取ろうとしていたコーヒーカップを置くと、手を膝下のあたりで合わせると、何かボソッとつぶやく声が聞こえた。
 それは、多分「いただきます」と言ったのではないかと思った。
 私は、青年に対して何も言わなかったが、心の中で妙に感動するものがあり、ことのほか、その朝御飯が美味しかった。
 このことから私は、この「いただきます」との食前の挨拶的な行動は、日本人として幼い時から培われたものであるが、しかし、大人になるにしたがって、あるいは家庭以外のところでとなるとなかなか、そうはしなくなる。
 この「いただきます」は、他の人に向かってするものではなく、また集団的行動の食べる合図でもない。
 つまり自分と自身の心と食べ物に向かっての自発的行動の言葉ではないか。
 だからこそ、1人であっても、家庭の外でも、どういうところでも、食べる前に「いただきます」「ごちそうさま」と言いたいものである。そのように私は思っている。
 そこに、隣の青年がハッとして気づいてくれたことに、私は嬉しくなったのだ。

 この「いただきます」との言葉は、食事をする時の単なる挨拶とか合図ということなのであろうか。
 もっと本来的な意味がありそうだ。
 まず「いただきます」の「いただく」とは、一体、何のことを言うのであろうか。そのことを考えてみたい。
 これは、古来、収穫した「自然の恵み」を神様や仏様にお供えしたものを、お下げし頂戴することから、頂き(いただき、頭の上)にかかげたことから「食べる」「もらう」の謙譲語(けんじょうご)として「いただく」が使われることに由来し、やがて食事全般において、食べ始める前に、「もらい、いただきます」「お恵み、いただきます」から、「いただきます」と言うようになったとのことである。
 このことにより、神仏から頂戴するとのことで、行為として声に出し、自然に合掌するようになったものであろう。
 これは、古(いにしえ)より食事の恵みは皆な天からの授かり物であることが根底にあるのだ。そしてまた、この「恵み」は全て「生命(いのち)」あるものである。
 五穀も野菜もお魚もお肉も収穫するものは皆な生命あるもので、「食べ物」の存在は「生命(いのち)」の存在でもあるのだ。
 私たちの生命(いのち)は、生命(いのち)あるものを食べることによって生かされている。
 だから、その「恵み」に対する感謝と、生命あるものを「いただく」ことへの愛情が「いただきます」の心なのだ。
 更には、自己という生命(せいめい)も、天からの授かったものであり、生かされている命ということからも「自己への祈り」としての合掌でもあるのだ。

ひるがえって、国宝である八戸は風張遺跡から発掘された「合掌土偶」は、縄文時代にあって、特定した神仏への合掌というものではなく、自然の恵み、大いなる天への敬虔(けいけん)なる祈り、神秘なる自然や生命への祈り、そして人間たる自己への祈りの姿ではないかと私は思っている。
 この「合掌土偶」の姿は、色々な見解や諸説があることを踏まえて、私自身の単なる自説曲解であることをつけ加えておく。
 つまり、私達の手を合わせる「合掌する行為」は、古来より日本人の脈々と流れるDNAの姿であって、特定する宗教的な行為でないのである。

 何を言いたいかというと、食事前の手を合わせる行為は、宗教的行為というものではなくて、私達の「恵み」に対する「授かる」という感謝と愛情の具現化した人間としての行為・行動なのではないかということだ。

 ひとつには ひとやものにも 多くのおかげと 感謝して いただきます。
 ふたつには ふだんの行い ふりかえり 手を合せて いただきます。
 みつには みずから正し わがまま言わずおいしく いただきます。
 よつには よく身を保ち すこやかにとありがたく いただきます。
 いつつには いのちすべてが しあわせなれと 願い込め いただきます。
 この五ヶ条の偈文的な歌は、曹洞宗東北管区教化センター資料作成委員会の1人として3年前に作成した「声に出して唱えたい 五つのいただきます」というものである。
 これを作るまでに、喧々諤々、1年間、口角泡を飛ばした末に出来上がったもので、コンセプトは、子どもも大人も皆なが「いただきます」の意味と、その心を知ってもらいたかったからである。
 それは、ごく普通に、日常の生き方として、皆なに「いただきます」と唱えてもらいたいとの思いであった。
 つまり食事をするということは、全ての「生命」に対し、「恵み」に対し、「授かり」に対し、そして私も、あなたも、あらゆる「存在」に対しての祈りであり、感謝であり、慈悲であり、愛情であり、共に幸せを願うことにほかならないからである。

 今号の「さわやか説法」では、パートⅠとして人間の根源的な心としての「いただきます」を展開してみたが、来月号のパートⅡにおいては、曹洞宗の教えの根幹にある「仏法(ぶっぽう)と食法(じきほう)」について述べてみたい。

「いただきます」
そう言って、食べると美味しくて、心温まり楽しく食事できますよ。
 来月号にてまた「いただきます」と、そして「ごちそうさま」について語ります。

合  掌

  
※参考「いただきますの日」普及推進委員会
 「いただきますの日ってなに?」
 曹洞宗東北管区教化センター作成「いただきます」