和尚さんのさわやか説法217
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 そろそろ、芝居版「ぼくざん物語」もエピローグであります。
 金英和尚こと万吉(後の西有穆山)は、母から厳しい鉄槌を受け素直に自己の初心に立ち返ることができた。
 万吉は知ったのだ。いや、知らされたのだ。
 「母の心」を…。
 「母の愛」を…。
母の子を想う、とてつもなく深い愛情が万吉の心をおおっていた。万吉は、厳しい母の訓誡を受け、現実的には突き放たれたことではあるが、大きな「慈(いつく)しみ」に包まれていたのである。
 江戸に戻る道中は、何かモヤモヤとしたものが吹っ切れた爽快感と、これから何を為すべきか、その自己に対する指針と道筋、そして希望に満ちあふれていた。

「おっ母さん!!ありがとう!!」
「おっ母さんは すごい人だじゃぁー。」
「おっ母さんは おっかなくておっかなくて。 でも、こんなに私のことを案じてくれてェー」
「オラ!!おっ母さんの為にも、頑張るじゃ」
「オラ、必ずお父っあんもおっ母さんも極楽に行けるよう本当の出家をしますじゃ!!」
 万吉の心には新しい決意がみなぎっていた。
『今、出家の人として即ち仏家に入り、僧道に入らば、須(すべから)くその業を習ふべし。その儀を守ると云ふは、我執を捨て、知識の教えに隨ふなり。』(隨聞記2−2)
 意味する所は、
「今、出家者として仏門に入り、僧侶の道に入ったならば心得て本分たる仏家の修行を習うのだ。その本分を守るというのは、我執を捨て、善知識の教えに隨い、学び習うことである」ということであった。
 この宗祖道元禅師の言葉が、金英和尚の心に、まざまざと甦っていた。
「そうだ。私は、八戸に帰ってから、自分の出家者としての本分を見失っていた。」
「江戸で住職ともなり八戸に帰れば、もっとえらい坊さんになれると、慢心を起こしていた。」
「それも、おっ母さんの側にいてやれるという 自分の都合のいい理由をつけてだ」
「それを、おっ母さんは見抜いて……。」
「おっ母さんは、そんな私の執われの心を捨てさせようとして…。」
「私を突っ放し、追い出すかのようにして、戸を閉めたんだ!!」
 母の心の真意を得心した万吉は、江戸へ歩みを進める道中にあって、時折、振り向いては北に向かい手を合わせ、「出家者としての本分たる修行」の如何なるものかの覚悟を決めていた。

—その頃—
「万吉!!母から追い返される!!」の報は、またたく間に、湊村はもとより、八戸寺院に伝わった。
「オイオイ。聞いだどぉー!!あの金英和尚様のごど、なをさんだば追い出したんだど」
「えっえっー。どうしでだのよぉー。何して追い出されなければならないんだよー。」
「いやいや、あの気性の強い女(おなご)だもの。うんど屋の戸ば、バシッと閉めで、江戸さ戻れェ!!江戸さ戻って修行しなおせェーって怒ったずもの」
「だけどさー。八戸にいれば親孝行してもらえるし、八戸のお寺の住職さんにも、なれるんだよぉー。」
「それが、駄目だって言うのよ!!」
「万吉!!慢心を起こしたかぁー。って諌(いさ)めたというごどだ」
 もう湊衆は、母の心を知らず、万吉の心を知らず、お互いに噂に噂をしては、万吉が江戸に帰ったことを惜しんだ。
 それは寺院方も同じであった。
「金英和尚が、江戸に戻ったとか?」
「そういうことですな。残念至極ではあるが、あの母が『一子出家すれば九族天に通ず』の初心に戻れよと、戒めたそうじゃ」
「なるほど!!出家者としての初心に立ち戻り本分の修行をせよとな」
「まっこと、あの母らしいわい。」
 八戸の和尚樣方は、惜しみながらも、母の心情を理解していた。
 そして金英和尚のこれからの行く末も案じていた。
「さて、金英和尚は八戸の住職とはならず、江戸に戻ったが、これから、どうするのであろうかのぉ?」
「そうですな!!金英和尚のことですから、このままではありますまい。」
「きっと、更なる修行を積み、研鑽を重ね、どのように育っていくか楽しみでござる」
「初心の弁道(べんどう)すなわち本證(ほんしょう)の全体なりと申す きっと、初心に返った金英和尚は、必ずや、仏法の本證を究めることであろうよ。」
「そうじゃな。きっと金英和尚は大成することであろうな」
 それぞれが、それぞれに行末(いくすえ)を案じながらも将来を期待していた。
 「初心」とは、仏道を志した「発心(ほっしん)」とは 最初に起こした心というだけではない。
 初心は立ち戻り、立ち返り、今現在の、新たなる心を起こすことも「初心」であり「発心(ほっしん)」ということなのだ。
 道元禅師は、この所以を『正法眼蔵』(発無上心巻)においてこう示されている。
『一発菩提心(いちほつぼだいしん)を百千万(ひゃくせんまん)発(ほっ)するなり。修證(しゅしょう)もかくの如し。しかあるに発心(ほっしん)は一発(いちほつ)にして、さらに発心せず。修行は無量なり。證果は一證なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにはあらず』
 この意味は、発心は仏道修行の中で、百千万回発(おこ)す。即ち無限に発(おこ)し続けていくということなのだ。
 出家を志した、その時一回こっきりだけであり、悟りも一回のみという考え方は、本当の仏法を知っているのではないと否定される。
 真実の「発心」とは生涯を通じての無限の「仏道初心」ということなのだ。
 まさに、金英和尚の初心は、幼き頃「地獄極楽絵図」を母と共に仰ぎ見た時、「母を極楽に行かせる為には、我出家せんとす」との「心」のみならず、更に母の厳しき訓誡を受けての新しき「発心」であったのだ。

 金英和尚は、母の心によって、仏としての心である「仏心」が呼び起こされた。
 その呼び覚まされた心の発動が「初心」として具現化されていく。
 即ち「発心」の中に更に「発心」するという「心」が「心」に呼応していくことなのだ。

 江戸に帰った金英和尚に旃檀林の学僧らもはたまた住職を勤める鳳林寺の檀家衆や地域の皆も、目を見張った。
 久しぶりに再会したからではない。一回りも二回りも大きく見えたのだ。
 同じ人物なのに…。同じ金英和尚なのに…。全然ちがっているのだ。ひとつの境地を超えた僧侶がそこにいた。
「金英和尚様、お帰りなさいまし!!」
江戸の熊さんも八っつあんも、皆なも喜び出迎えるのだが、無性に涙が止まらなかった。
 気高さからくる迫力からだろうか、大いなるものに抱かれるが如くに…。
 金英は皆なのクシャクシャ顔に感激しながらも、ある決意を胸に秘めていた。
 それは、江戸の旃檀林を、はたまた鳳林寺を辞して、「善知識」を求め「知識」の教えに隨うべく新たなる旅立ちをしようとのことであった。
 この続きは、来月号の「さわやか説法」芝居版「ぼくざん物語」最終回で述べることに致しましょう。

合掌