和尚さんのさわやか説法312
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
お釈迦様は、かく説かれた。
おろかなるひとに
念慮(おもんばかり)起こるとも
他を利せん心なくば
その念慮(おもんばかり)
かえって自らの
好運(しあわせ)を亡ぼし
おのれの頭(かしら)をも
うち砕(くだ)く
(法句経 72)
意味するところは
愚かなる人は、思いも寄らぬ良き事が起きた時、その念慮を他の人に向け、救わんとする心が無ければ、かえって自らに起こった好運を亡ぼし、ガツンと自分の頭を打ち砕くようなことが起こる。ということである。
つまり、好運にめぐり会った時は自分だけのものとせず、他の人に与える事を考えなさいとの教えなのだ。
今月、7月1日、私は思いも寄らぬ好運に恵まれたと、ほくそ笑んだのも束の間、頭ならぬ足を「グシャ」っと砕かれたのであった。
その日、八戸発11時27分の新幹線に乗車し、青森市は、荒川にある「青森刑務所」に向かった時のことだった。
八戸駅の自動券売機で、通称「Wきっぷ」と言う往復割引きの自由席券を購入して乗車した。
私は青森刑務所には、「教誨師」という被収容者の更生教育活動として月に1回程度は訪れているが、この日は、久しぶりの刑務所訪問だった。
それは、今般の新型コロナウイルスの感染予防に伴い、教誨活動も自粛を余儀なくされ3月~6月は控えていたからだ。
―しかし―
教育担当の刑務官から、6月末に1本の電話があった。
「高山さん。受刑者から、何で和尚さん、ずう~っと来ないんだ!!と催促されまして、何とか都合つけて、来てもらえませんか?」
私は、即座に応じた。
「移動自粛は解除されたことだし、それに催促されたこともあるし、行かずにおれないでしょっ!!」
「高山さんは、結構、受刑者に人気あるんですよ」
この刑務官の言葉に一瞬、「う~ん?」と詰まりながらも私は嬉しかった。
―てなことで―
青森に向かうべく新幹線に乗車したが、コロナの影響もあり、ガラ空きで3列席を一人じめして、カバンやら昼食の弁当袋を空席に置き、陣取った。
座るやスマホをいじったり、今日の講話をどう展開するかをメモしていると、急に睡魔に襲われ、いつしか寝入っていた。
「新青森~。新青森~」のアナウンスに飛び起き、カバンにノートやら弁当を入れ慌てて駆け降りた。
改札口では刑務官が迎えに来ており、塀高く深閑とする刑務所へと向かう。
昼食を取り12時40分からの「坐禅教誨」で、鉄格子の窓のある教室に案内された。
中は、コロナ感染対策で私と被収容者の間には透明のビニールシートで仕切られており、彼らも間隔を空けてのソーシャル・ディスタンスだ。
まず初めに合掌し挨拶をして、それから坐禅だ。
被収容者も、何回も坐禅をしていることから、慣れたもので、板張りの上にゴザを敷き、そこに「坐蒲」という坐禅用の丸い布団に尻を乗せ、そして両脚を交互に組み姿勢を正して黙座する。
その後、説法講話をしてもう一度、坐禅をする。こうして約1時間を共に過ごし、終ると、刑務官が迎えにきて着替えの控室に戻る。
―その時だった―
スマホが無いことに気づいたのだ。
着物の両袖、あるいは外套(がいとう)のポケット、カバンの隅々まで探したが、どこにも無いのである。
「あっ!!」
「新幹線の座席だぁー」
つっつっつうーっと背筋に汗が流れた。
私は、すぐさま帰りの車を手配してもらい新青森駅に急いだ。
到着するや、忘れ物係に脱兎の如く走り、
「すみません。スマホを新幹線に忘れたと思うんですが……。」
「う~ん。新幹線の下りは終着が新函館ですからねぇー」
「げぇー。」私は息を呑んだ。
「いや、確か新青森が終着だったと思いますけど」
「ふ~ん。じゃあ、はやぶさ何号?」
「えっ~と。八戸発11時27分です」
「待っててね。それなら、はやぶさ9号ですね」
「確かに新青森終着ですね。」
「じゃあ、あるかな?」
「では、何号車ですか」
相手の駅員は疑わしそうに、こちらに回答を求める。
「う~ん。広いトイレのある号車で、たぶん5号車です」
「3列席の真ん中の席に置いてあったはずです」
「どんな色ですか?」
「はい、黒のケースです」
「じゃあ、これかな?」
と差し出したのは紛れも無く、私のケータイスマホだった。
「それです。それです……」
―しかし―
それを即座には渡さない。
私は「そのスマホは開くとロックが掛かってます」
「その番号を言いますから、駅員さん、あなたが押してみて下さい」と叫んだ。
「そうか」と言うことで、押すと解除され画面が出たところで、納得したのか、私に、そのスマホを返してくれたのだ。
「私は、助かったぁー」
と安堵の吐息をもらし帰りの新幹線に、また飛び乗った。
「やれやれ、良かったなあ」
「ちゃんと無事、戻って……」とそのスマホを愛おしく撫でまわした。
八戸駅に到着する時刻となり、切符を手にすべく着物の袖に入れた途端、また、あの時と同じように、つっつっつうーっと背筋に汗が流れた。
「無い!! 無い!!」
「切符が無い!!」
またまた、あちこち捜した。しかし、やっぱり無い。
「あぁー。今日はスマホは忘れるし、切符は落すし……」💧💧💧
「気抜けしてるよなぁー」💧💧💧
「しかし。待てよ!!」
「こうして、新幹線に乗ってるんだから、確かに改札口は通ったんだよな?」
「どこで落したのだ?」
皆目、見当がつかない。
もう、ガックリしたのなんのって💧💧💧
「しょうがない。じゃ帰りの分は払ってもいいや!!」と覚悟を決めた。
八戸駅の改札口で駅員さんに、また事の経過を説明をした。
―すると―
「何か、新青森駅から乗ったという証明が出来ますか?」と疑わしそうに聞いてきた。
何しろ、こちとらは
「青森刑務所からの帰りで……」と言ってることもあり、また坊主頭にマスク、そして着物姿でもあり、何かしら胡散臭く余計なことを思ったらしい。
「そうだ。そうだ」と
財布にWきっぷの領収書を入れたことに気づき、それを見せた。
そしたら、呆気なく、
「はい。よろしいです。これなら、乗車券を確かに購入したことが証明できます」
「どうぞ、通ってよろしいです」
私は「どうもどうも」と御礼を言って、ユートリーの駐車場に向かった。
車の運転席にドガっと座わるや心の中で
「今日はスマホを忘れ、切符は紛失するし、でも、どちらも何とかなった」
「これは仏天の御加護なのか」
「はたまた運が良いのか?」
「ツイてるというか。好運だぁー」と呟き、こう思った。
「今日は、これから、もっと良いことがあるかもしれねェぞぉー」と、ほくそ笑んだ。
「では、今日は自粛から開放されて、どっかに飲みに行こうかな?」
「ウワッハッハ(笑)…」
すっかり、刑務所での坐禅教誨を忘れ、被収容者への教育説法も忘れてだ。他の人への念慮は微塵も無かった。
私の車の駐車場は、JR八戸線の高架下である。
そこに停めて、ドアを開け右脚を地面に着けた瞬間だった。
「グニャ」っと何かを踏んだ。
「ウッ」と声を呑み、
その足元の草履を見た。
―なんと―それは、犬のフンだったのだ。
―その時、私は―
思わず声ならぬ声を上げ叫んだ。
「今日は2度も運についてたのに、3度目の運は犬のウンコが付いたぁー」
お釈迦様は言ったではないか!!
「おろかなる人は、思いも寄らぬ運にあった時には……」と……。
私は、まさしく「愚かな和尚」だったのだ。
お釈迦様は、私の「今日はツイているぞ」なんて、ほくそ笑んで、自分だけのことを考えている心に、最後に鉄槌ならぬ「犬のウンコ」を踏ませて、頭をガツンと砕いたのだ。
―その夜―
私は夜の街に出ることなく、おとなしく自粛していた。
トホッホッホ💧💧💧(涙)
合掌
※『法句経』友松圓諦訳 講談社学術文庫