和尚さんのさわやか説法308
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 「コロナショック!!」
 この言葉は経済用語のようだが、もう経済ばかりか、これからの全ての「新型コロナウィルス感染」に関わる事象あるいは2020年の出来事を現わす用語として用いられるかもしれない。
 それほど「ショッキング」な大事件であることは確かなことだ。

 中国は武漢市を発生源とする「新型コロナウィルス」の感染が報じられたのは、本年1月からだった。
 実は武漢市において人から人への感染が見られたのは昨年12月にはあったという。
―そして―
 またたく間に、隣国である日本、韓国はもとより全世界に感染が拡大している。
 我が国においては、中国からの観光客、またクルーズ船への乗船客との濃厚接触によっての感染者が報告されてより、その拡大化は日々に増加し続け、現在はどこの誰かからか分からないうちに感染しているという、その恐怖の真只中にいる。

「29日目の恐怖」
 これは、初めて「新型コロナウィルス」の報道がTVニュースで流れ始めた時、私の口から思わず口を衝いて出た言葉だった。
「こりゃあー。もしかすれば大変なことになる。」
「29日目の恐怖となるかもしれないぞぉー」と…。

「29日目の恐怖」とは、フランスの寓話にあり、これを題材として悪化する地球環境の保全の為に、地球温暖化への警鐘として、よく用いられるという。

 ある日のことだった。大きな大きな池に1枚のハスの葉が浮んだ。
 どこからかやってきた1つの種が芽生え、そして、それが大きな池に浮び出た瞬間だった。
 人々は誰も気づかない。
―だが―
 その葉っぱは2日目には、2枚。
3日目には4枚。
4日目には8枚。
5日目には16枚。
と増えていった。
―そうー
 このハスは日毎に倍々となって増えていくのだ。
 それでも、人々は、その増えていることに、さして気を止めなかった。
 気づいた人もいた。
「あれ?ハスが少しずつ、増えてきているぞ」
 でも、気づいてはいても、静観し、ただ傍観しているだけだった。
 29日目、とうとう、そのハスは大きな池の半分を埋めつくしていた。
―さあー
 30日目には、どうなるであろうか?

 こういう警告、警鐘の寓話である。
 皆さん!!新型コロナウィルス感染の状況と酷似していると、思いませんか。
 初期の対応や、発生源の制御に気づかず、あるいは、気づいていても何らかの手を打っていなければ、この寓話と同様のこととなる。
 ある学者が言っていた。
「危機対応は予見と初動にある」と…。
 この予見とは、29日目、そして30日目の「恐怖の認識」を持つことではないか。
 この「恐怖の認識」とはまさに危機感を抱くことなのだ。

 今月号の「さわやか説法」は2月末に執筆している。
 3月21日発行の時点においては、どのようになっているのか私には、予測できない。
 もっと感染が拡大化しているのか?
 それとも沈静化し始めているのか?
 願わくは沈静化していてくれれば良いが…。

 この新型コロナウィルスの感染は、人間への病原体感染ばかりではない。
 この「ウィルス」は経済にも、社会そのものにも感染してしまった。
 各種イベントの中止や延期。集客施設の閉鎖や、いろいろな飲食店や外食産業、夜の盛り場への来客数の減少化。
 あるいは観光客、インバウンドの激減はもとより、国内外における移動抑制に、物流停滞と、社会的交流が閉ざされることへの影響にも及ぶ。
 この「ウィルス」が世界に感染し、拡大していることからも、もしかすれば全世界的な経済不況に波及するかもしれない。
 そうなれば、日本国に、企業倒産や雇用喪失、また社会的弱者の増大と「負の感染」現象が生じての、経済的損失のみならず、大きな人命的損失が生じかねない。

 新型コロナウィルス肺炎の感染は、人間の生命の存亡に関わり、尊い「いのち」の問題だ。事実、多くの方々が重症化し、亡くなられている。
 そしてまた、感染することへの不安は増幅し、国内全体が「不安・不信」社会化してきている。
 このことは、私達の日々の生活やその形態そのものを脅かし、先程述べた「負の感染」現象は、新型肺炎に感染していなくても、尊い「いのち」を奪うことにもなりかねない。

―とするならばー
 何よりも優先すべきは、この病原体ウィルスを根絶する新たな「治療薬」を処方し、人々を救うことなのだ。
 感染した方々を隔離や抑制、規制、自粛を要請するばかりでなく、一早く検査体制が即応し、その治療薬を施し、またワクチン開発の上、未然に感染を防ぐことを早急に対処しなければならない。
 このことは医療界も政府も、もちろん分かっているだろうが、国民が一番、そのことを願っているのだ。

 このウィルス根絶、拡大防御の不安解消、不安から安心への転換が、とりもなおさず、あらゆる「コロナショック」からの回復への道ではないか。

 お釈迦様の説かれた『法句経(ほっくきょう)』の中に、
こういう一句がある。(285)

爾(なんじ)の手に
秋の蓮(はす)をたつがごとく
おのれの よくを
      たつべし
かくして
寂静(じゃくじょう)の道を養うべき
この涅槃(しずけさ)は
善逝(ほとけ)によりて
ときいだされり

 私は、このお釈迦様の法句を怖れおおくも大胆に、かつ勝手に「29日目のハス」に擬(なぞら)えて、はたまた字句を置き換えて、こう述べたくなった。

医(い)の手にて
病(やまい)の蓮(はす)をたつがごとく
ウィルスの感染を
     たつべし
かくして
寂静(じゃくじょう)の道を養うべし
この涅槃(しずけさ)は
人々によりて
ときいだされたり

 皆さん!!どうであろうか。

 今、私達が、いや全世界の人々が願うことは、感染を断ち、まさに寂静の道を養うことであり、平穏な「しずけさ」なる社会に立ち戻ることなのだ。

合掌

 ※引用『法句経』友松圓諦訳講談社学術文庫

 ※お釈迦様の教えを本来の意味から逸脱して勝手に置き換え自説解釈しましたこと、お許し下されたく存じます。

懺悔合掌