和尚さんのさわやか説法314
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今年に入ってから、この「さわやか説法」は、ずうっと「新型コロナウイルス」に関連したことを書き続けている。
 今月号もまたその「コロナ」のことを説法したい。
-それは-
 私達日本人の社会的意識が、コロナ以前とコロナ以後において、一変してしまったということである。
 そもそも「社会」とは、私達人間の共同生活そのものの総称であることから、人間の集団としての営みや、家族また学校、会社等々いろいろな組織での営みのことをいう。
 そしてまた、私達人々が生活している現実の世の中、世間一般をも指す。
-つまり-
 人と人との関係性においての共同、共生の営みにおける現実の世の中ともいえる。
 だからこそ、私達はお互いに密を避けるどころかより密を深めて、寄り添い、向い合い、助け合いながら共々に人間社会を営んできていた。

-ところが-
 この「新型コロナウイルス」の感染拡大拡散によって、その予防として、最も重要なのは、人間関係における密集、密接、密閉を回避する為に、お互いが「寄り添うな、向き合うな、近寄るな、ソーシャル・ディスタンスだ!!」となった。
 それが、お互いを思いやり、人間関係を良好に保ち、自他共に健康保持の為には最善の方策であり、その意識によっての自粛行動を促されたからである。
 この意識は、これまで培われてきた「家族」や、いろいろな社会のあり方、経済、雇用、生活、団欒、集い、移動等々全ての分野に渡って一変し、変化そのものが急激に加速化してしまった。

-故に-
 この社会的意識は、宗教界、仏教界にも多大な影響をもたらし、コロナ以後の宗教事情は、大きく変容させられた。
 顕著に現われたのは「葬儀」の仕組み、形体にである。
 お寺や葬祭会館でのマスク着用や間隔を空けてのソーシャル・ディスタンス、手指の消毒はもとより、葬祭会館によっては検温装備を配置しているところもある。

-そして-
 最も端的な変化は、皆さんが集って、亡き人とお別れをする葬式の内容が「弔問形式」という従来には考えられなかった「お別れ方式」であった。
 それは、葬儀の定刻1時間前の30~45分の間に、お別れしたい会葬者が「3密」を回避することから、その時間内において三三五五各自の都合に合わせて弔問し、お別れの焼香をするというやり方である。
 つまり、葬儀そのものに参列して、故人を偲ぶというものではない。
 コロナ以前は、葬儀への会葬は、時間前に到着し、読経、引導、弔辞等の場に居合せては故人を追悼し、それこそ肩が触れ合わんばかりに密閉空間に密接密集していたのであった。
 そして、喪主焼香の後、喪主からの御挨拶を静聴しては共に故人の生前を偲ぶのである。その後、遺族焼香があり、会葬者焼香となって、終了後には、御遺族への弔問をして門送を受け帰途につくのであった。
-ところが-
 コロナ発生以後は、その最後の部分の「弔問」だけが、それこそ始まる前に執り行われ、葬儀そのものは「家族」だけでという形式となったのである。
 私自身、初めてその「弔問形式」の葬儀を執行した時は、とても違和感を覚えていたが今は、それが当たり前となって、すっかり慣れてしまった。
 確かに「家族葬」での葬儀は平成時代から多くはなってきてはいたが、このような弔問形式での「家族葬」は無かったのである。
-そしてまた-
 コロナ以前は、葬儀初七日法要が終わると故人を偲び、親類縁者の方々による「会食」があり、共々に集いの場があったものだが、コロナ以後は、その会食での密集密接の食事を回避してのお弁当の持ち帰りとなり、個々の自宅での「なおらい」ともなった。
-いわゆる-
 葬儀とは、地域共同体、家族共同体における亡き人を送り偲ぶという「集いの祈り」だったはずなのに、コロナ発生以後、特に「緊急事態宣言」が発出されてからは、個々のソーシャル・ディスタンスを保つ「個の祈り」へと変化し、あまつさえ、亡き人、亡き仏に対してさえも「ソーシャル・ディスタンス」を保つような奇妙な感覚を持つようになったのではないかと、私は思わずにはいられない。

-というような-
ことからか、これからの葬儀形態は、より個人化意識が促進され、「弔問式家族葬」が定着していくことは間違いない。
 更には、個人化によって「家族葬」そのものも変容して「個人葬」へと変化していくのではないかと、私は思っている。
 つまり、亡くなられた故人を送る葬儀においては、近隣の方々はもちろんのこと、親類や親しき方々へも知らせず、家族間においても限定された1人とか2人のみにて送るというような傾向が顕著となってきており、これからは、そういう時代になると思わざるをえない。
-先般-
こういう御葬儀を依頼された。亡き人を送る家族は東京にいる。
「緊急事態宣言」発令中のことだった。
「和尚さん!!私達は東京にいて、八戸まで行けません」
「そちらの葬儀社に全部まかせますので、和尚さんお1人のみで葬儀全て埋葬までお願いします」
 私は了解せざるをえなかった。
 いわゆる現代風に言えば、「無観客葬儀」とも言うべきか、「無遺族葬儀」「無家族葬儀」であった。
 このような事例もまた、これからは、応々にあり得ることであろう。

 このような個人化の意識変容は、墓地の形態にも及ぶ。
 それは、今までの「家族型墓地」から、個人の意思を尊重して、自らが選択しての「合葬型墓地」へのニーズが高まってきていることだ。
 事実、市内各寺院にては、近年その合葬型の永代供養墓が整備されてきている。
 また八戸市においても来年度には、生前予約式の「合葬墓」を建設するとのことで、先月、その趣旨が八戸仏教会に提示された。
 このような個人化に向かう社会的意識の変容は、平成から令和の時代に入って、ますます顕著となり促進していくことであろう。

 そのことからも、八戸市における「弔問式葬儀」のあり方は、今後、コロナが収束したとしても定着化するだろうし、家族型墓地でいう先祖代々から引き継がれてきた「〇〇家」なる「家」意識から脱却した個人化志向もまた増加していくことであろう。
 このような現象は、今般のコロナ感染によって、今まで徐々に進行していたが、今年になって急激に進行し始めたと感じている。

 お釈迦様は『法句経』において、かく説かれている

 世に母性(はは)あるは
 さいわいなり
 父性(ちち)あるも また
 さいわいなり
 世に道を求むる
 ものあるは
 さいわいなり
 婆羅門(ばらもん)の性(みち)あるも
 また さいわいなり

        (332)
とある。
 私達には母があり父がいて家族があって、さいわいである。
 また、こうして私達が、この世に存在しえるのも母があり、父があってのことであり、そのことによって「さいわいなる生命」を授けられている。
 そして世の中に、それぞれの人生の道を求める人々がいることも、さいわいである。
 お互いが共にありて、さいわいなのである。
 コロナ禍の現代にあってお釈迦様のこの法句を、今一度かみしめたいものである。

合掌

 

※参照『法句経』
 友松圓諦訳
  講談社学術文庫