和尚さんのさわやか説法327
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 もう師走、12月である。
 なのに、まだ『十牛図』を愚考愚説し続けている。
 それは、本年令和3年は「丑年」でもあり、正月号から毎月「十牛図」を取り上げてきた。
-てなことで-
その「十」なる絵図を基にした漢詩を題材にして、毎号1話仕立てで、「紆余曲折」の「曲解説法」しているものだから、師走になっても、まだ終わらない。
 トッホッホッホ💧💧💧

 今月号は、第9図「返本還源」であり、「へんぽんかんげん」と読む。
 そして、この第9図には、「牛」をテーマにしている『十牛図』ではあるが、その牛は描かれていなく、また牛を探し求め、捕まえ、家に連れて帰って来た「牧童」たる人もいない。
 描かれているのは、川の流れとその辺(ほとり)に咲く梅の木である。
 「本(もと)に返(かえ)り、源(みなもと)に還(かえ)る」とは?
 また、描かれている梅の木や川の流れは?
 一体? 何を?
教え示そうとしているのか?

 安土桃山時代、わが国の「茶道(さどう)」を大成した茶人は、言わずとも知れる「千利休(せんのりきゅう)」(1522~1591)その人であり、その精神や教えは、令和の現代にまで脈々と受け継がれ続いている。

 私は、こう思った…。
 利休は、まさしく「茶の本質」を尋ね探し、「茶の心」を追い求め、「茶」と「自己」との一如なる境地に達せんとした茶聖である。
 そして、やがては「茶の本源」を究めては、「わび茶」なる「自然たる姿」に還っての「茶道」を完成させた方だ。
 この「利休の茶」の道程は、それこそ『十牛図』における第1図「尋牛」から「返本還源」に至る道程と酷似一致しているのではないかと……。

 この頃というか、10月になって少し小寒くなった頃から、奥様が台所ではあるが、抹茶を点ててくれるようになった。
 これが、実にうまい。いや、私自身が美味しく感じるようになったのだ。
 私は苦い味がするものは、大の苦手である。
 ビールは駄目、専ら日本酒党だ。故にコーヒーは勿論ダメ。
 ましてや抹茶に対しては、見向きもしなかった。
-ところが-
 このコロナ禍で嗜好が変った。
 外出自粛によって、奥様と御一緒する時間が特段に向上したからだ。
 ある時、奥様が台所で抹茶を美味しそうに飲む姿を見て、

「うまそうだなぁ~」
「美味しいよぉ~」
「和尚さんも、飲んでみる?」
「いや、オレは苦いのダメなの知ってるでしょ」
「まあ~ねェ!!」
「いや、まてよ!!」
「超!!超!!薄目の抹茶だったら飲めるかも」
「そうだ。抹茶のお湯割りだったら、いいかもよ」
-そんなわけで-
 奥様は、苦味の代わりに苦虫を嚙みつぶして、点てた抹茶に、またお湯を足しての「抹茶お湯割り」を作ってくれた。
 茶碗タップリの超・超・薄茶をズズズーと飲むと、これが実にうまかったのだ。
 ちょうど、福島から知人が送ってくれた「薄皮万頭」があったもんだから、これを頬張った。
 超茶にお菓子は皮、そして髪のい和尚だ。
 それからというもの私は、毎日「抹茶のお湯割り」を所望するようになった。
 お酒も日本酒から緑茶ハイに変った。
 お茶の神様、茶聖「千利休」宗匠には、こっぴどく怒られるかもしれない。
「茶は、ただ飲めば、いいというものではない!!」
「お前という和尚は、薄皮どころか、薄バカ和尚だ」と……。
 トッホッホッホ💧💧💧

 利休茶聖は、こう述べられている。

 茶の湯とは
 ただ湯をわかし
 茶を点てて
 のむばかりなる
 ことと知るべし

 この道歌は「利休百首」の九十八に出てくる「茶の道の歌」である。故に「利休道歌」とも称せられる。
 ここには、
 利休居士が到達した「茶」と「自己」とが一如一体となっての境地の道歌が綴られている。
 私、高山和尚ごときが「ただ飲む」のと、利休居士の「ただ」とは天地懸隔、月とスッポン、ドテラとパジャマ、せんべい布団と羽毛布団の如くに、まるっきりかけ離れて異るのだ。
 この利休居士の「ただ」という境地は、まさに「仏の悟り」「茶の悟り」とも云うべき至言なのだ。「ただ」は全ての句に掛かる。
 ただ湯をわかし
 ただ茶を点てて
 ただのむばかりなる
 ただ知るべし
-この「ただ」が-
 難しいのだ。ここに至るまでの「茶の湯」には、どれだけ求め、尋ね、困難であったか!!
 利休のみが知る境地なのだ。
 この「ただ」には、「ありのまま」という自然体となり「自然」と同化した「究極なる無執着」の境地を表わしている。
 しかるに、第9図の「梅」と「小川」の自然の姿の絵そのものだ。
-これは-
 まさしく『十牛図』における「返本還源」たる境地ではないか。
「茶の本に返り、茶の源に還る」
 利休居士が到達した「茶の心」が、この一首なのではないか!!

 『十牛図』第9図「返本還源」序には、
 本来清浄 不受一塵
 観有相之栄枯
 処無為之凝寂
 不同幻化 豈仮修治
 水緑山青 坐観成敗

と説かれている。
 まず和訳してみよう。
 本来は清浄にして、一塵を受けず。有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。
 幻化に同じからず、豈に修治を仮らんや 水は緑にして、山は青く、坐しながらに成敗を観る。

 まだまだ難しい。では、意訳してみよう。
 源たる本来は、元より清らかで、塵一つもない。
 世相の栄枯の移り変りを観ながらも、心は作為の無い静寂の境地にいる。
 これは幻の世界でもない。故に、どうして飾る必要や取りつくろう必要があろうか。
 川の水は木々の緑に映え、山は清々しく青い。
 私は、ただここに坐わって万物のありのままを見つめよう。
-まさに-
 前述した利休居士の「茶の湯とは…」の至言と同じ境地ではないか!!「茶の湯」の心は「ただ湯をわかして」の、ありのままに「ただ点てて、のむばかり」なのだ。

 「抹茶のお湯割り」をいただくようになった、とある日。
 いつもは、お茶の前に出してくれるはずのお菓子がなかった。
「アレ?お菓子は?」というと…。
「あらぁ!!」と呟くや、どこからか捜してきた飴玉一個を懐紙の上にうやうやしく置いた。
「何でぇー。飴玉かー」
「もっと、まともなお菓子はないのかよぉー」と言った途端。
 奥様は、こう言った。
「どこが、まともではないと云うのですか!!」
「飴玉でも、まともなお菓子なんです!!」(怒)
「黙って、頂戴しなさい」
 私は、台所のテーブルに両手をついて
「ハァハァー」と、ひれ伏した。
 その飴玉は、柔らかくて口にふくむと甘い香りがした。
 食べ終えた頃を見計らって、奥様は「抹茶のお湯割り」を目の前に呈してくれた。
 茶碗を手に取り、その抹茶を飲むと、これが実に実にうまいのだ。
 飴玉の甘さと抹茶の味との絶妙さに唸った。
 私はその美味しさを味わいながら、こう思った。
「そうだよな!!まともでないお菓子はない。全ては、まともなのだ」

-きっと-
 奥様は、私に教えたかったのだ。
「茶道の世界」は、お茶も、お菓子も、お椀も、そして出してくれる人も、飲む人も、全ては「まともな世界」なのだ。
「まとも」は漢字で「真面」と表記する。まさに「真実」であり「真髄」なのだ。
 それが「茶道の心」であることを……。
-奥様!!-
「あなたは『利休の心』をしっかり学び会得されているんだね」
 私は心の中で頷いていた。

合掌

 

※お詫び
「茶道」の心得も知らない門外漢の和尚が、利休居士の一首を愚考愚説しました。
 茶道の宗匠・先生方には、御寛容をいただきたく伏してお詫び申し上げます。合掌