和尚さんのさわやか説法331
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 今月も、先月号に続いて「銭湯説法」である。
 私は、銭湯というかお風呂屋さんには、「神様」がおられると思っている。
 いや、そう信じている。
-そう-
 それは、「お湯の神」に「水の神」だ!!
 私は、銭湯の湯舟に入りながら、周りに誰も入っていないことを確かめると、ついつい小声で歌いたくなる。
 歌謡界の大御所「北島三郎」の「まつり」の一節を捩(もじ)ってだ。
♬「山の神…。海の神…。今年も本当にありがとう……」♬
 ここの フレーズを夜の銭湯では、
♬「お湯の神…。水の神…。今宵も本当にありがとう……」♬
 朝風呂だと、
♬「お湯の神…。水の神…。今日もホントにありがとう……」♬
と、湯舟にドップリつかり、汗をダップリとかきながら、歌い感謝する。

 お湯の神は、疲れた体を癒し、エネルギーを与えてくれ、水の神は、シャキンと体を引き締めてくれる。
 そして、何よりも「心」をリフレッシュしてくれるのだ。
 そのリフレッシュの前段階が最初に少し温めのお湯に入り、それから本格的に熱い湯舟に移って、じっくりと入っている時なのだ。
 身体が温まってくると、欠伸が頻(しき)りに出始めるのである。
 もう、「開いた口が塞(ふさ)がらない」ぐらいにだ。

 こんなことがあった。
「どうして、俺って分かったの?」事件だ。
 私の欠伸は、結構、大きいらしい。喉の奥から「アッアッアー」と声帯を震わして出てくる。
 湊町の、あるお風呂屋さんだった。
 ここで、読者の皆さんにお聞きしよう。
 私達は「どんな時、欠伸が出るのか?」である。
 多くの方々は、それは「酸欠状態になった時でしょ!!」とか、「眠くなった時」と答えることであろう。
-でも-
 私は、銭湯で風呂に浸(つか)っている時に出るのだ。
 別に眠いわけでもなく、ましてや酸欠状態でもない。
 これは、急激に熱いお湯に入ることによって、体内温度が上昇し、その温められた血流が脳に刺激を与えるのである。
 つまり、脳を冷ます為に、欠伸をすることによって、脳が、脳をクールダウンさせようとするのが「欠伸の原因」であるという。
-その銭湯で-
 私は、何回、欠伸が出たのであろうか?
 疲れていたのか?あまりにも気持ちが良かったのか?
 ともかく「アッアッアー」と大きく「密林のターザン」よろしく雄叫び的な欠伸が、銭湯全体に、何度となく響いていたのであろう。
 1時間半後じっくり汗を流し、さっぱりした気分で風呂から上がり、脱衣所から銭湯ロビーに、出て番台の前を通り過ぎようとすると、風呂屋のおばちゃんに止められた。
「和尚さん!!」
「風呂場で、あんまり奇声を出さないで下さい」
「えっ?」
「女湯の人からクレームがきたの!!」(`Д´)
「はあ~?」
「女湯からクレーム?」
「他の男性も、いっぱい入っているのに?」
「俺なのかい?」
「ともかく、女湯に入っている人から、気味が悪いって…。」
「だから、分かりましたか!!」
「はい…。」と渋々頷いた。
 そして、私はフト浮んだ疑問を口にした。
「女湯から、何で?俺って、分かったの?」
「見えないはずなのにどうして、俺って分かったの?」
 おばちゃんはその問いには答えず、素知らぬ顔で、私を目でたしなめた。
 今もって、分からない不思議な事件である。
 でも、確かにあの時は、いっぱい欠伸が出たなぁ…。
 トッホッホッホ💧💧💧

-しかしながら-
 欠伸は思いっきり出すから、気持ちが良いのである。
 お風呂に入っての欠伸は、脳の活性化、リフレッシュしている証拠なのだ。
 それは、心も身体も癒され、安らぎ、新陳代謝していることに他ならない。
 その事件後も私は、相も変わらず熱いお風呂に入っていると欠伸が出る。
 困ったもんだ。

「お湯の神様!!」
「すみません。お許し下さい……」
「お湯の神様に抱かれていると、ホントにリラックスするのです」
 きっと、お湯の神様は私を戒めたくなったのだ!!
「自分ばかり、リラックスするのではない!!
 他の人もリラックスしているのを邪魔するものではない!!」と…。

-また-
 こんな事件もあった。
「水戸黒門(みとこくもん)」事件である。
「水戸黄門」ではありませんぞ!!
 小中野の、ある銭湯の水風呂に入っている時のことだった。
 そこの水風呂は、水加減というか、水の温度が、よき冷たさなのか、入れ替わり、立ち替わり、多くの男どもが入る。
 ある者は潜り、ある者は桶からかぶり、ある者は沈んだまま浮んで来なく、心配する時もある。
 もう、子どもから、若者、爺様までだ。
 私も、熱い湯に入り、その水風呂に、じっくりと浸かるのが好きだ。

-ある日-
 その水風呂に先に入っていたお爺さんが上がるのを見計らって、私が入った時、その爺さんは、水風呂の淵に座ったのである。
 私の目の前には、爺さんの背中とお尻があった。
 やがて、爺さんは落ち着いたのか、立ち上がろうとする瞬間だった。
 足を滑らし、前に詰んのめったのだ。
 「アッ」と私が声を上げた。それと同時に、
 その爺さんの「ケツの奥」が目に飛び込んできたのだ。
 爺さんは、ことも無く立ち上がり、その場を去ったが、私の瞼には、焼きついて離れないものがあった。
-その時-
 私は、思わず声を出して呟(つぶや)いた。
「これが、90年、使ったケツの穴かぁー」
 まさに、真っ黒だったのだ。
 その呟きが聞こえたのか?
 同じ水風呂に入っていた隣りの客が、水を叩いて笑い転げた。
 まさに、水風呂だからこその「水戸(みずと)」の「黒門(こくもん)」だった。

-爾来-
 私は、いつもにもまして、お尻を丁寧に洗うようになった。
 私は、自分で自分のお尻の奥を見たことが無い。
 どんな風になっているのか?
 あの爺さんのようになっているのか?
「きれいな色であって欲しい」と願っている。

-きっと-
「水の神様」は、私にそのことを教えたかったに違いない。
「しっかりと 洗い清めなさい」
「お風呂に入るというのは、単にリラックスやリフレッシュばかりではない」
「心身共に光潔となることなのだ」と……。
 そう、お湯の神と同じく私を戒めたのだ。

 仏教の各宗派、特に禅宗においては、お風呂の入口前に「入浴の偈」なる偈文(げもん)が墨書にて掲示してあり、ある菩薩像がまつられている。

 沐浴身體(もくよくしんたい) 當願衆生(とうがんしゅじょう)

 心身無垢(しんしんむく) 内外光潔(ないげこうけつ)

 意味するところは、私の身体(からだ)を沐浴(もくよく)し、お風呂に入ることは、願わくは多くの人々も、私も、それぞれが心と身の垢を流し、無垢となって、体の内も外も光潔となるように
とのことである。

 お湯の神・水の神は架空の神様ではない。実在するのである。
「入浴の偈」とその「お湯の神・水の神」についての詳細は、来月号にて、またまた「銭湯説法」を致します。

合掌

※参照『まつり』
 作詞 なかにし礼
 作曲 原 譲二(北島三郎のペンネーム)