和尚さんのさわやか説法332
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 先月号の「さわやか説法」で、私は銭湯の湯舟につかりながら、♬「お湯の神~。水の神~。今日もホントにありがとう」♬と小声で呟き唸っている情景を語った。
-でも-
 この唸る情景は、大きな湯舟に私一人だけがポツンと入っている時だけに限っている。
 他のお客さんも同じ湯舟に入っている時なんぞ、とても唸ったり出来るもんではない。
 多分に、迷惑そうな視線を浴び、「変なヤツだ!!」と気味悪がられるに違いない。

-ある時-
 知人に、こう言われたことがある。
「風呂屋のガラス戸を開けて入ると、高山さんが来ているのが、何となく分かるんだよ」
「姿が見えなくても、分かるんだよな!!」と言う。
「へェ~?何で?」と聞き返すと……。
「だってさ、何かしらの声が響いているのさ!!」
「御経を唱えているというか?」
「ともかく、そんな声が聞こえるんだよ」と笑った。
「俺!!ナンモ御経なんて唱えてないよ!!」
「でも、たまには小さな声で歌うことはあるけど…」
「俺の歌って、御経に聞こえるのかい?」
 思わず、ため息が出てしまった💧💧💧

 確かに私は、熱い湯でも、冷たい水風呂でも、入ると、その瞬間!!何かしらの感嘆の声が出る。
 先月号でも述べたような「欠伸(あくび)」から、冷たい水風呂の時は、「プハァー」とか、熱い風呂での我慢して入る時なんぞは「クォー」とか。
 熱い風呂に慣れてくると「はぁ~」というような気持良さの感嘆の声が出てしまう。
-そして-
 続いてというか、ものの次いでに、
「はぁ~れた空~」♬
「そよぐ風~」♬
「港、出船のドラの音たのし~」♬とのフレーズが勝手に出てくる。
 私は、どうして、ナツメロ「憧れのハワイ航路」が出てくるのか自分でも、分からないが、ついつい「ハァーれた空」♬と、口ずさみたくなる
 ホント、困ったもんだ💧💧💧

-でも-
 言い訳するならば、湯舟に首まで身を沈めゆったりとすると、その感嘆の接頭語が出るのも、「お湯の神、水の神」に抱かれての心地良さのせいだからである。
 やっぱり!!
♬「お湯の神。水の神。今日もホントに ありがとう」♬なのだ。

-故に-
 私は、風呂場のガラス戸を開けて入る時、そして、出る時にも、必ず「一礼」をしている。
 それは、お湯の神、水の神への御挨拶と感謝の心と共に、実は、若き修行時代における「浴場作法」に培われたことによる。
 先月号から「銭湯説法」している「お湯の神、水の神」とは、実在する「抜陀婆羅菩薩」(バッタバラ ボサツ)のことなのだ。
 御本山や修行道場においては、風呂場のことを「浴司(よくす)」と云い、その浴司の入口の前にこの「抜陀婆羅菩薩」の尊像が逗子(ずし)に収められ、まつられている。
 私達修行僧は、風呂に入る時は、法衣を着用し、その前で三度、礼拝(らいはい)をし、それから脱衣所で法衣、着物を畳んでから、裸となって風呂場に入る。もちろんその時も、合掌一礼するのであった。そして風呂から上がり帰る時も、同じく礼拝をするのだ。
 何故そうするのか?それは、この菩薩様はお風呂に入って、悟りを開かれたことに由来しているからである。

 お釈迦様の時代、古代インドに「バトラ・バーラ」という修行者がおられたという。
 後に中国に伝来すると「抜陀婆羅」と漢訳され、悟りを開かれたことから「菩薩」となられたのである。
 この時の状況を説かれているのが、
 中国禅宗の古典『碧眼録(へきがんろく)』の第78則、「開士入浴(かいしにゅうよく)」なる公案(こうあん)である。

 古、有十六開士。
 於浴僧時 随例入浴。
 忽悟水因。
 諸禅徳 作麼生會。
 他道 妙触宣明。
 成仏子住。
 也須 七穿八穴始得。

 漢文は、まことに難しい。和訳すると、

 古(いにしえ) 十六の開士(かいし)あり
 僧の浴(よく)する時に於(お)いて 例に随(したが)って入浴す。
 忽(たちま)ち水因(すいいん)を悟(さと)る。
 諸禅徳(しょぜんとく) 作麼生(そもさん)か会するや。
 他(かれら)が「妙触宣明(みょうそくせんみょう)
 成仏子住(じょうぶつししじゅう)」と云うを。
 也(ま)た須(すべか)らく 七穿八穴(しちせんはっけつ)にして始めて得(え)るべけんや。

 この「開士入浴」の公案は二段から構成されている。
 前段は「古、十六開士」から始まり、古代インドの『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』に出てくる故事であり、それを例話として示したのだ。
 そして、後段は「諸禅徳」からであり、「入浴して悟りを開いた」この故事を修行僧達に、どう考えるのかと問う問題(公案)を提起するのであった。

-では意訳しよう。-
 昔々、16人の菩薩がおられた。バッタバラ菩薩を始め、皆なが作法に随って入浴をした時のことである。
 忽然(こつぜん)として、湯水の感覚を起因として悟ったのだ。
 ここまで前段であり、次から後段に入る。
 さあ!!修行僧の諸君よ。16人の彼らが言うところの
「妙(たえ)なる湯水に触れ、悟りを明らかにしたと宣言し、仏子(ぶっし)としての安住の境地に成ずることが出来た」と……。
 この開士入浴の本質を作麼生(そもさんか)どのように理解しますか?
「分かるかな?」
「それはね!!自分自身が穴だらけになるまで突き刺す、つまり修行に修行を重ねて始めて得ることが出来るのさ!!」との説破なのである。

 この公案の意味するところは、16人の菩薩が入浴して悟ったのは、単に身体の汗や垢を流すのではなくして、心の中に染み付いた汗や垢を洗い落し仏子としての境地に目覚めたことなのだ。
 でも、このことは「七穿八穴(しちせんはっけつ)」たる修行研鑽に研鑽を、し尽くして、始めて会得できることなのだ。

-以上のことから-
 御本山や修行道場では、風呂に入浴するということは、単に湯舟に入るのではない!!
 風呂に入るのも、修行であり、この抜陀婆羅菩薩が悟りを聞いた由縁(ゆえん)にならい、禅作法に随って入浴する。ということだった。

-ところが-
 私のごときの凡愚なる和尚は、修行時代もさることながら、72才になった現在であっても、抜陀婆羅菩薩の故事公案にならうどころか、すっかり忘れ去り、湯舟に入っては♬「晴れた空 そよぐ風~」♬なんて鼻歌を歌いながら、ゆったりとリラックスして入浴している。
 あまつさえ、抜陀婆羅菩薩様を、
♬「お湯の神、水の神、今日もホントにありがとう~」♬と、湯気の向うに、まつり上げていい気分で唸っている。
 ホントに、困った和尚だ。💧💧💧
 抜陀婆羅菩薩様は、お風呂に入り「忽ち水因を悟った」のに対し、凡愚なる高山和尚なんぞは「忽ち水因に溺れる」がオチである。
-でも-
 熱い湯に入り、冷たい水風呂に入ると、
「スカッー!!」と爽快なる気分になり、心も身体も無礎自在にして、リラックスできることだけは、私でも悟れた。
-しかしなぁ~!!-
 これは、悟ったことにはなりませんね。
 やっぱり、私は凡愚の中の凡愚なる和尚であり、単なる銭湯好きな和尚であることは間違いない。
トッホッホッホ💧💧💧

合掌

 
 【追伸】禅寺での「入浴作法」や「入浴の御経(偈文)」については、来月号の「銭湯説法」で語ります。
 【参照】「憧れのハワイ航路」
     作詞 石本美由起
     作曲 江口 夜詩
     唄  岡 晴夫