和尚さんのさわやか説法333
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 このところ、ずう~っと「銭湯説法」を連載しているが、今月号においては、若き修行時代の「入浴作法」というか、「入浴風景」を物語してみたい。
 読者の皆さんは、禅寺での修行僧達の「入浴風景」や、ましてや、「作法」なんぞは、見ることも、聞くこともないことであろう。
「えっ?風呂に入るのに儀式作法があるの?」とビックリすることでしょう。
 興味ありませんか?

-実は-
 禅寺の入浴風景は、私達が普通一般に風呂に入ったり、銭湯に行って、リラックスする光景とは、まるっきり違っているのだ。
 それは、先月号で説法した如く、お風呂に入るのも「修行の一貫」であり、抜陀婆羅菩薩(バッタバラボサツ)の開悟(かいご)の由縁にならっての「悟りの修行」でもあるからだ。

-故に-
 きちんとした儀礼作法があり、それと共に黙って風呂に入り、静かに汗を流し、黙々と身体の汚れを洗い流すのである。
 誰とも語ることなく静かに、只ひたすらに風呂につかり、坊主頭から汗がダラダラ流れようと、黙々と沐浴するのであった。
(湯舟に浮ぶ坊主頭の無言の汗ダラ集団は異様な光景ですぞ…)

 禅寺では、「三黙道場」と称する三つの「黙」なる場所がある。
 それは、一つに「僧堂」。坐禅堂であり、修行僧の生活の場だ。二つに「東司」つまりトイレ。そして三つに「浴室」お風呂場である。

 相傳、浴室、僧堂、東司、不許談笑。
 故比総日 三黙堂。

 これは『禅林象器箋(ぜんりんしょうきせん)』という禅寺での規律、行事等の起源や意義について詳説した書に記載されている一文である。
 分かりやすく和訳してみよう。
 相(あい)、伝えるに、浴室、僧堂、東司は、談笑を許さず。
 此(こ)の故(ゆえ)に 総(そう)じて曰(いわ)く 三黙堂(さんもくどう)と。

 このことからも、禅寺では、風呂場においては、語話談笑することは、許されず、ただ静かに「黙(もく)」なる修行の場でもあるのだ。
 まさに「黙浴」なのだ。

-嗚呼(ああ)-
 それなのに、それなのに、凡愚なる修行僧の私、高山和尚なんぞは、♬「お湯の神~。水の神~。今日もホントにありがとう~」♬と、いい気分で鼻歌しながら湯舟に入っている。
 もう、すっかり、厳しき修行時代を忘れてしまっている。
 とんでもない和尚だ💧💧💧(涙)
 トッホッホッホ…。

 禅寺での入浴日は「四九日(しくにち)」と決っている。「四九日」とは、4と9の付く日のことだ。
 つまり、その月の4日、9日。14日に19日。24日そして29日なのである。
-それは-
 私達の日常は、曜日毎の7日間サイクルだが、昔からの禅寺では日付毎の5日間サイクルで構成されているのだ。
 つまり、一六日(いちろくび) 二七日(にしちび) 三八日(さんぱちび) 四九日(しくにち) 五十日(ごっとうび)のことを言う。
 そこには、それぞれの数字が付く日が、どういう日なのか設定されているのである。
 分かりやすく記すならば、
 一六日(いちろくび)…請益(しんえき)➡修行僧と師家との勉強会の日
 二七日(にしちび)…入室(にっしつ)➡師家の室に入って、自己の疑問を尋ねる日
 三八日(さんぱちび)…念誦(ねんじゅ)➡自らを懺悔(ざんげ)し、祈り誓いを新たにする日
 四九日(しくにち)…浄髪(じょうはつ)➡頭を剃り浄め、お風呂に入っての休息日。この日は朝夜の坐禅が放免となり、4時起床が、5時ともなる。
 五十日(ごっとうび)…上堂(じょうどう)➡師家が、修行僧らに説法をする日。以上の如くであった。

 このことからも、4と9の付く日に開浴され、私達は、それこそ厳しい修行から開放されるような気分になり、束の間の安楽休息の日でもあった。

-さてさて-
 その四九日となると浴司(よくす)和尚、また「水頭(すいじゅう)」と称せられる役目の修行僧達は、風呂を沸かす。そして、入れる状態になって、まず第一番目に誰が入るであろうか……?
 それは「文殊菩薩」様なのである。

 先述した修行僧達の生活の場である「僧堂」坐禅堂の中心に祀(まつ)られているのは「文殊菩薩」様であるからにして、先(ま)ず一番風呂なのだ。
-かと言って-
 文殊菩薩の御尊像を取り出して、風呂に入れるわけにはいかないので、儀式として、「浴司百拝」と墨書きされたサラシ木綿の白布が、T字型の木製掛けに下げられている。
(※私が御本山に入門したての頃、この「浴司百拝」を初めて見た時、「100回もお拝をするのかあ~?」と驚嘆したものだが、実は、文殊菩薩様に、敬意崇拝を表わしてのこと)。
 普段は文殊菩薩像の背後に置かれてあるが四九日の開浴日は、これを御尊像の前に供え、般若心経を係の修行僧が唱えながら、浴室に向うのである。
 浴室の入口には、抜陀婆羅菩薩が祀られており、その御真前で三度、礼拝(らいはい)をした後、湯桶の前に跪(ひざまづ(ず))き、その「白布」をお湯に浸すのである。
 その時、『清浄真言(しょうじょうしんごん)』なる呪文を唱える。
「オン・シュリシュリ マカ・シュリ シュシュリ・ソワカ」と…。
-そう-
 文殊菩薩様、そしてお風呂を、お湯を清めるのであった。

 この儀式が終ってから、役職付きの高僧、老僧から順に入り始め、次に古参の和尚様方が入り、最後に、大勢の修行僧らが続いて入るのであった。

 老僧から私達修行僧全員がそれぞれ浴室に入る際には、お風呂で悟りを開かれた「抜陀婆羅菩薩」様の御真前で、合掌低頭して、次なる偈文(げぶん)を黙喝しながら三度、礼拝(らいはい)するのであった。

 沐浴身體(もくよくしんたい) 當願衆生(とうがんしゅじょう)

 心身無垢(しんしんむく) 内外光潔(ないがいこうけつ)
 
 意味するところは、
 私は今、自分の身体を沐浴し、洗い清めます。
 まさに願わくは、全ての人々も心と身の垢を流し 無垢清浄となって それぞれの体の内外 つまり身も心も 全てが光潔とならんことを
 との「願文(がんもん)」なのである。
 つまり、お風呂に入っての「心身無垢」「内外光潔」は「悟り」そのものの当体なのであり、その教えでもあるということなのだ。
 禅寺の入浴は、抜陀婆羅菩薩様の湯舟に浸っての「悟りの仏道修行」ということだ。

-ひるがえって-
 この『願文』の冒頭にある「沐浴身體」は、現今下の新型コロナウイルス感染予防の観点から、市内の公衆浴場では、脱衣所や風呂場入口のガラス戸に、「黙浴」なる紙が掲示されるようになったことを鑑みるならば、
黙浴身體 當願衆生 心身無垢 内外光潔」となるのではなかろうか?
「沐浴」は「黙浴」に通じるのだ。

-さすれば-
 ある意味で、コロナ撃退の1つの対策として、静かに黙浴して、身体の垢を流し、汚れを除去することは心身が光潔となってのウイルス防止と健全衛生となるのではないか?

-ここまで-
 禅寺での入浴風景なる儀式、作法、また「入浴の偈」なる「願文」の意味を述べさせていただいた。
 皆様、どの様に感じましたか?
 まず、「へェ~?」っとビックリしたことでしょ!!
 この修行体験は、私にあっては、やはり今も生きづいている。
 銭湯でも、家の風呂でもガラス戸を開けて入る時は、三度、礼拝するまではしないが、合掌低頭、つまり一礼してから入る。もちろん上がる時もだ。
 もう身についた癖というか習慣なのである。
 抜陀婆羅菩薩様、あるいは「お湯の神、水の神」に一礼を通して御挨拶せずにはいられないのであった。
♬「お湯の神~。水の神~。今日も よろしくねェ~」♬

合掌