和尚さんのさわやか説法346
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 急に涼しくなってきた。
♬「今はもう秋・・・」
八戸の海水浴場である蕪嶋や白浜はこの夏、芋の子を洗うようだった。でも今は、
♬「誰もいない海・・・」

「あの暑さが、妙になつかしい・・・」
 私は、急につぶやき、氷を入れた「緑茶ハイ」を、グッとあおった時だった。
「えっ?」
 台所でテーブルの向こう側にいた奥様が、怪訝(けげん)そうに覗(のぞ)き見た。
「いゃぁー」
「涼しいと、この冷たい緑茶ハイが全然美味しくないんだよ!!」
「あの暑さの中で、汗をかいて、暑い!!暑い!!と言いながら、一気飲みした時の緑茶ハイは実に、うまかったなぁー」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「あの暑さが、妙になつかしい・・・・・・」
また呟いた。
-そしたらである-
 奥様は、同調するどころか、
「なに言ってんの!!」と、言い放つや、「知らん顔して、ゆきすぎて行った・・・・・・」
 私は「誰もいなくなった海」に一人残されたような寂寥感の中で、またコップを上げた。
トッホッホッホ💧💧💧

 先月号の「さわやか説法」では、この夏の猛暑、酷暑、炎暑、熱暑に因んで、禅の語録である『碧眼録(へきがんろく)』にある「洞山無寒暑(とうざんむかんじょ)」の公案を取り上げてみた。
 ここに、もう一度、再掲してみる。

 僧、洞山に問う。
「寒暑到来 いかんが回避せん」
山云く。
「何ぞ 無寒暑の処に向かって去らざる」
僧云く。
「いかなるか これ無寒暑の処」
山云く。
「寒時は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時は闍梨を熱殺(ねっさつ)せん」

 この公案の肝要は、洞山禅師が僧の考えを一刀両断しての末尾の一喝だ。
「暑い時は、あなた自身が暑さになりきることだ」
「寒い時は あなた自身が寒さになりきることだ」
とのことであり、どこかに回避しようとすることではなく、自分の心の問題であることを喝破している。
 つまり、回避しようと他を求める心ではなく、自己の「徹底心」であるとの教えなのだ。

-しかし-
 現代は、そんなことしてたら「熱中症」になるし、寒中で耐えてたら「低体温症」になってしまいますよ。と私は、先月号で恐れ多くも反論してしまった。
 それは、洞山禅師になり代って言うならば、「なりきる」のではなく、「楽しもう」という見解だからだ。
-つまり-
「熱時は 熱時を 楽殺し、寒時は 寒時を 楽殺せん」だ。
「暑い時は 暑さを 思いっきり楽しみ、寒い時は 寒さを 思いっきり楽しもう」と、いうことだった。
 それは「なりきる」「なりきりなさい」と他から強制されたり、自分を抑制することではなく、自分自身の判断で、自分の体調管理の上、「自己工夫」によって、暑さ寒さと共存することではないか!!と結論化したのである。

 どうであろうか?
洞山禅師は、「その通りだ」と証明してくれるであろうか?
 私の奥様にしてみれば、「何、言ってんの?」「バカ言ってんじゃないよ!!」と鼻歌まじりで、不証明した。
「和尚さんは、ただ緑茶ハイをプハァーッとあおりたいだけなの!!」
-まさに-
 奥様は、禅の巨匠だ。洞山禅師に代って、私に大喝をくらわせた。
-奥様!!-
あなたは、私の答えをいとも簡単に、「楽殺」してくれた。
 というより、楽しんで殺してくれた。
 トッホッホッホ💧💧💧

-では-
 奥様に「楽殺」されたことに鑑み、この洞山禅師が言われた「闍梨を熱殺し 寒殺せん」の「殺」について論考してみたい。
 この「殺(さつ)」とは「殺(ころ)す」とか「殺人」のような意味ではない。
 強調の言葉で、上の文字を際立たせることにある。
 『臨済録(りんざいろく)』なる語録にあまりにも有名な言句がある。
 それは、臨済宗の祖である臨済義玄禅師(?~866)が示衆されたものだ。
「仏に逢わば仏を殺し、祖に逢わば祖を殺し、羅漢に逢わば羅漢を殺す・・・・・・」

 何とも、物騒で過激である。
 でも、これは「殺人予告」ではない。
 上の句の強調なのだ。
-即ち-
 仏、祖師、羅漢と出逢ったなら その仏・祖師・羅漢そのものと同化し「入我(にゅうが)・我入(がにゅう)」「仏そのもの」「祖師そのもの」「羅漢そのもの」に没入しての「なりきる」いや「もう、なりきっているのだ」との意味ではないか。
 仏と自分との対立がないのである。
 つまり「無寒暑」とは、自己と「寒暑」との対立がない「無」としての世界だ。
「無なる寒暑」なのだ。

 実は 洞山禅師は、「寒さ、暑さ」のこの問答に例えての問題提起だった。
 それは 私達の眼前にある「生死(しょうじ)」の世界であり「生死」そのものへの「公案」なのだ。
 つまり、「生きる」「死ぬ」とは どこかにあるということではない。
「寒暑到来、いかんが回避せん」との問いは、
「生死到来の時節 いかんが回避せん」との問いであり、
「如何なるか これ生死の無い処?」に、答えることにある。
 かくして、洞山禅師は、こう答えるのだ。
「生死の無い処?」
「そんな場所の問題ではないぞ」
「お前さん自身の問題だ。」
「生きる時は 生(せい)そのものになりきれ」
「死する時は 死そのものになりきれ」
「生死」と「自己」とを対立することなかれ。との一喝だったのだ。

 今度は道元禅師の登場だ。
 道元禅師は『正法眼蔵』(生死の巻)で、こう喝破している。
「生死(しょうじ)の中に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし」と・・・・・・。
 この中にある「あれば」、という言句を洞山禅師、臨済禅師が、それぞれに示されている「殺(さつ)」という強調語と同様と認識するならば、このように解釈できるのではないか。

「生死の中にあって仏そのものであり、仏であるからこそ、生死はない」と・・・・・・。
 つまり、「あれば」は、仮定ではなく、強調としての「あればこそ」「あるからこそ」という意味で、「もうすでに、そうなっている」との意味であった。自分と「生死」との対立がないのである。

 今月号の「さわやか説法」は、この夏の猛暑から学んだ「洞山無寒暑」の公案を取り上げ、更には、その本質を探求してみた。
♬「今はもう秋・・・・・・」
暑さから開放されたのはいいが、やはり私は「あの暑さが、妙になつかしい・・・・・・」

合掌 

※参照 トア・エ・モア 「誰もいない海」 作詞 山口洋子