和尚さんのさわやか説法153
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

「和尚さん!!めんどくせいじゃあ!!」
「輪ゴムを、はずして入れろといったって、なかなか輪ゴムはとれねェし」
「このまま、ゴミ箱に投げた方が楽だじゃ」
 こんな声が、私に浴びせかけられた。
—はたまた—
「あれまあー。この機械ったら、花をムシャムシャ食べてるよ」と、ビックリした声も響く。
—また一方では—
「包紙や新聞紙は、こっちの箱へ。セロハン、ビニール類は、あっちのゴミ箱に入れろって、いちいち分けねば、ならねェのすか?と、不満気な声も上がる。
 私は、お寺のゴミ捨て箱の前で立往生をしていた。
—そう—
—この光景は—
 今年の春彼岸中日、檀家の皆さんが大勢、それぞれの御先祖供養のために墓参りに訪れた時のことであった。
 実は、こんなチラシを毎回送付する春彼岸の御案内の中に入れたのである。
 タイトルは、「お墓のお供え花の分別処理についてのお願いと御協力」であり、その内容は、こうであった。
「21世紀は『人権、平和、環境』の時代といわれております。私たち常現寺の宗旨である『曹洞宗』においては、この『人権、平和、環境』を三大スローガンとして掲げ、その教化実践に取り組んでおります」
「その根本理念は、一人ひとりの人権の尊重、世界平和の実現、そして大自然の恵みに感謝し、環境に思いをめぐらす生活であります。」と、問題提起をしたのであった。
 この、人権、平和、環境のスローガンは宗教、宗派、宗旨を問わず同じ共通課題でもあり、それぞれが各様(かくよう)に取り組んでいることでもある。
 そしてまた、環境問題についても、各お寺様においては、自分達の問題としてそれぞれが独自の取り組みをしていることも事実である。
 そこで、私は「環境に思いをめぐらす お寺の実践」として、「お供え花や生ゴミ」のエコリサイクルに着目したのであった。と、いうのは、
 今まで、ゴミ箱に捨てられた生花や、それを包んだ紙、ビニール類は、それがたまるとまとめて八戸市の清掃工場焼却炉に「お供え花の火葬」と称してトラックで選んでいたのである。
 いつもこの生花を人夫さん達と一緒にトラックに積み込み運んでいて考えさせられることは、「この多量の花を何とかならないものか」
「供花の火葬として焼却することは、多大なるエネルギーが消耗する」
「かといって、ゴミ箱に入れたままであれば、すぐ満杯になり、あふれてしまうし」
「じゃあ!!檀家さん方に、お墓にお花を上げないで!!とも言えない。」と、いうようなジレンマの状態であった。
 この悩みを解消する方法は、「この捨てられた生花がきちんと処理でき、かつゴミとして消耗することなく『再生(リサイクル)』できないものか」という、まことに都合のよい私の一方的な考え方であった。
 この都合のよい考え方を持っていた人は実は私一人だけでなかった。
 ほかにちゃんといたのである。しかもスゴイことには考えるだけでなくそのもの自体を「生花処理機」として作ってしまったのであった。
=いやはや 恐れ入りました=
 その人こそ、市川町の浄土宗願成寺(がんじょうじ)副住職斎藤学成(さいとうがくじょう)師であった。彼の発想のもとに八戸工業大学にあるそのグループの面々が叡智を集め、試行錯誤の末、完成したのが「エコ・キュービック」(消滅型生花、生ゴミ処理機)と呼ばれる資源循環型社会をめざして製作された機械だったのである。
 私は、この機械の説明を受け、早速にも飛びついてしまった。
 なんてったって、このエコ・キュービックは、私の思い描いていた通りなんだもの!!
 その特長は、ただ単に生花、生ゴミを処理するだけではなく、それを細かに砕き肥料としてしまうことにあった。
—つまり—
 その生花、生ゴミに付着している自然界の好気性微生物を利用して、その増殖に適した基材(もとざい)(杉の間伐材(かんばつざい)をチップ化)を入れて、それらが相互に撹拌されて、一日24時間あたり30kgの生ゴミ、生花を食べる(処理する)というのである。
 そしてその30kgの量は、生きている微生物が食べ、呼吸しているのであるからにして、やがて炭酸ガスと水(水蒸気)に分解消滅させ、悪臭の発生を制御し、その十分の一の3kgの肥料にするという。
 その肥料は、当然、化学的技術をほどこした肥料とはちがい、まさにシンプルで自然の力で出来たものであり、その効果は、土に優しく、自然を思いやる肥料ともいえる代物であった。
—しかし—
 ただ一つ難点があった。それは「生花、生ゴミ」だけしか食べれない(処理できない)ということであった。
 紙やビニール類は絶対にダメである。
 このことが、冒頭の檀家さんの苦情であった。
 お寺のゴミ捨て場の前でエコ・キュービックの説明をし、その利点を力説し、実際に一人一人に生花を、その機械の投入口に入れさせ、肥料化する状況を見せていた時の反響が「いいものだ」とする評価と「めんどくさい」という苦情であった。
—その時—
 私は、こう叫んでいた。
「そうなんです。ゴミをキチンと捨てるというのは、めんどくさいものです」
「ただ捨てるのは簡単です」
「でも、地球のことを考え、環境のことを考えたなら、ただ簡単に捨てるのではなく」
「めんどくさくても、分別(ぶんべつ)して捨ててくれませんでしょうか。」
「そのめんどくさいことが、めんどくさくなることが、本当の意味での思いやりということなんです!!」と…。
 私は、ここでハッとしてしまった。
「そうなんだ。人に対する思いやりというものは、人間関係でいえば、めんどくさいことかもしれない」
「でも、ごく自然に、あたりまえに、めんどくさくなく『思い』をかけれるのが、真の思いやりというものなんだ」
そう、思わずにいられなかった。
 ゴミの分別(ぶんべつ)も、そうであろう。ごく自然にあたりまえに「生ゴミ、紙、ビニール、ペットボトル、アルミ缶、スチール缶 etc 」と分けて捨てることが出来るならば、何も「めんどくさいこと」ではないのである。
 その分別(ぶんべつ)する心と実行が、即ち「分別智」(ふんべつち)という人間の理性にもとずいた行動なのである。

合掌

 ※私は、このエコ・キュービックがもっと開発され将来、八戸全町内に一個づつ設置されればと願っている。そうすれば八戸市の焼却施設の軽減にもなるし、カラス、野犬の被害もないし、その上、町内や各家庭の庭作りの肥料ともなり、かなりの利点があると思うからである。