和尚さんのさわやか説法167
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延

 私は、ここ3ヶ月に渡り、「悪たれ川 流之介」となり、かの有名な芥川の「くもの糸」のその後(ご)を脚色し、自説を展開してきた。
 今月号のパート4で最終章とするが、最も言いたいことは、私達には、誰しも「カン陀多(ダタ)」の心があり、お釈迦(しゃか)様の心もある」ということなのだ。
 そして誰もが「カン陀多(ダタ)にもなれるし、お釈迦(しゃか)様にもなれる」ということであった。
—つまり—
 先月号で私は、カン陀多は上(のぼ)っていた「くもの糸」を自ら手を放し地獄に落ち他の亡者達を救いたいと願い、実行し、そこに喜びを感じたのだと描いた。
 カン陀多は、まさにお釈迦様の心となり、それを実践した。それも地獄にいてだ。
 その時、カン陀多にとっての地獄は「極楽」そのものになったのだ。
—即ち—
「地獄、極楽」は場所や空間の問題ではないのだ。自らの『心』と『行い』の問題であるということだった。
 私達は、誰もが「いつでも どこでも」お釈迦様の心に目覚めることが出来るし、かつ反対にカン陀多にもなるのだ。

 私は、8月号にこの「くもの糸」を掲載して以来、色々な講演先でお話をさせていただいた。遠くは東京、仙台、そして地元八戸市、近隣の町村での研修会、講演会、法話布教の中で実演し、不思議に、その「くもの糸」の話が進化し、成長してきたのであった。
 これには、私自身もビックリしている。
 圧巻だったのは、青森市平内町(ひらないまち)にある「青森少年院」での座禅教誨(ざぜんきょうかい)でのことだった。
 一時(ひととき)の座禅を終えてから、私は少年院の彼らに対して切り出した。
「皆さんは、芥川龍之介のくもの糸をいう話を知ってるかい?」
 少年達は一切に首を横に振ったり、かしげたりした。ただ側(そば)にいる教官の看守さんだけが縦に振った。
「くもの糸の物語に登場するのは、お釈迦様、極悪非道のカンダタという男とそして蜘蛛(くも)だ。」
「お釈迦様は、カンダタを救おうと天空より蜘蛛の糸を降(お)ろされた。
 それを見て、カンダタは『しめた』と手を打ち、そして上って行った。」と、その状景をリアルに身振り、手振り実演したのであった。
 少年達は、おもしろそうに身を乗り出し聞き入っていたのだが、私は、フトある事に気づいた。ここは少年院である。高い塀に囲まれた中で、彼らは社会から隔絶された中で生活をしている。
「あのね。カンダタが蜘蛛の糸を伝わって極楽へ上がろうとしているのを、俺はこうしてやっているが…」
と、言ってから一呼吸(ひとこきゅう)置いて、おもむろに、
「このことはさ。俺は君達に集団脱走する仕方(しかた)を教えてるのじゃねぇーぞ!!」と、力を込めて言ったら、一斉(いっせい)にワーっと皆が笑いころげたのであった。教官も腹を抱えて笑っている。当(とう)の私自身も、何だかおかしくなり、頭をボリボリかきながら照れ笑いしてしまった。
 場が期せずして和(なご)み少年達の開いた心に私の話がスポッと入った瞬間だった。
 私は彼らに最も言いたかったことを言い始めた。
「俺達には誰もがカンダタの心があり、お釈迦様の心がある」
「しかし、社会の中で活かす中で私達人間は、その二つのバランスを保ってお互いが生きている」
「いや、バランスというより、お釈迦様の心がカンダタの心に覆(おおいかぶ)さっているのかもしれない。」
「しかし、カンダタの心が大きくなり、お釈迦様の心を上(うわ)まわった時、色々な悲惨な事件が起きるのじゃないか」
 少年達は「へェー」というような顔つきとなり、私を凝視する。
「いいか君達!!君達は罪を犯してこの少年院に来た。その時の君達の心は、もしかすればカンダタの心であったのかもしれない」
「だったなら、今、この少年院にいて、お釈迦様の心に気づき、それを育ててもらいたいのだ」
「そして、この少年院を退院し社会に巣立って、また悪の道に入りそうになった時、必ず思い出してくれ」
「今、俺はカンダタの心なのか!!」
「カンダタになろうとしているのか」と、自らに問い直してくれ、その問い直すことが、お釈迦様の心に立ちもどり、お釈迦様の心に入る瞬間なのだ。
「カンダタはいつまでもカンダタではないのだ」
と、万感を込めて彼らに言うと、皆なは「ウン」と頷いてくれたのであった。

 最後に今回の「くもの糸」四連作のまとめとして読者の方からいただいた感想の手紙を掲載してみたい。
「高山和尚さんのお父様は地獄にはいないよ。高山さんみたいな仏様?のような方を育ててきたお父様はね、ちゃんと極楽にいってるの。それで高山さんの事を微笑(ほほえ)ましく見てるんだよ。だから高山さんも地獄に落ちる事はない。極楽でお父様の方丈さんとお釈迦様になっているはず!!もちろんお母様と奥様とね。」
 このような暖かい、励ましの手紙をいただいたが笑ってしまった。
「おいおい まだ私の奥様は生きてますよ。ご健在でありますよ。」と、吹き出してしまった。そして続けて
「くもの糸パート3まで読み急に泣いてしまいました。なんか自分の親に対する気持と重なったのかな?高山さんが自らの親に対する気持がそのまま心に刺さりました…」と。
 また、もう一人の読者の方は、「元延和尚様のお話の中で『誰しもお釈迦様の心とカン陀多の心がある』とありました。私もその通りだと思いましたが、それならなぜ、親子で傷つけあったり、見ず知らずの人に殺されてしまうような痛ましいことが起こるのだろうか。きっとカン陀多の心が上回った時、人を傷つけるのでしょう。それではお釈迦様の心を大きくするにはどうすればよいでのでしょうか。
 パート3に『全ての存在は相互につながりがあり、それぞれの縁によって、この世界を構成している。この縁によってつながる以外に独立した実体とか存在はありえない』ともありました。この中に「お釈迦様の心」を育てるヒントがあるような気がします。全てのものが支え合っているかけがえのない存在だと気付いたなら、自分自身も含めあらゆるものを大切に思えるようになるというか……」と述べられ、更にまた、「お父様のお話、とても感動しました。何て慈悲深い方だったのだろうと、まさに「お釈迦様の心」を見た気がしました。そして元延和尚様は次は自分が地獄の釜のふたになるといってましたが、和尚様がいらしたら、もうそこは地獄じゃないなぁと思いました。和尚様がいたら色々なお話を聞いて、きっと安心できますから。
 和尚様がいるなら私も地獄に行ってもいいと思う方はたくさんいると思います(笑)」と、お二人とも、それぞれに「悪たれ川流之介」的「くもの糸」の内容を若い(多分?)感性で読みとってくれて、私自身とても嬉しく、有難い感謝の気持ちで一杯になった。

 さあ「さわやか説法」の読者の皆さん!!
 来るべき2005年、「お釈迦様の心」で迎えますか、それとも「カン陀多の心」で迎えますか?
 皆様にとりまして来年がよき年であり、極楽の年であることを祈念しております。
 私、高山和尚の来年は「カン陀多」的な年であるように思えます。

合掌